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2012年6月5日火曜日

「こえをだす」

以前お伝えした学級目標「にこにこにくみ」について,どうしても保護者の方へお伝えしておきたいことがありました。


★以下 平成24年4月27日学級だより「にこにこにくみ」より★ 


先週から,この学級だよりの名前が変わりました。
「にこにこにくみ」は5年2組の学級目標です。多少強引な感じもありますが,子どもたちと話し合って決めた学級目標です。

「あきらめずに」「こつこつと」「なかまといっしょに」の3つは,子どもたちが「こんなクラスにしたい」と自分たちで思い描いた学級の姿を短くまとめて表現したものです。そこに,1つだけ私の願いを付け足しました。それが「こえをだす」です。


声を出すこと。
それはつまり「自分がどう思っているかを伝える」ということです。

一般的には「○○について考えたことを話してみよう」とか「○○についてどんな風に思いますか」という質問に対して,「自分はこう思っている」ということを指します。それはもちろんですが,私は「考えたけどよくわからなかった」「なんとなく,しか言えないけど…」というように「わからない」「途中まで考えた」ということも重要な「発言」だと考えています。

さらに子どもたちには,そういう色々な友だちの「発言」に対して
「自分もそう」
「なるほど」
「よくわからないんだけど…」
「聞こえないよ」
「自分とは違うな」
というように,反応することも重要な「発言」だよ,と言っています。
当然ですが,このような「声」を出そうとすると,まず人の話をきちんと聞いていなければできません。

大人でも,大勢の前で「わからないんだけど…」と声を出すのは勇気がいります。場の空気を読んで「わかったふり」をしてしまうこともあるでしょう。しかし学校の教室は,自分が学び,知ることに貪欲な空間であってほしいと思うのです。互いに信頼し合い「わからないよ,誰か教えて」「それってどういう意味?」と声に出す姿を,馬鹿にしたり笑ったりせずに尊重し合える“学び仲間”でいてほしい,そんな風に考えています。

ご家庭でもぜひ「『わからない』って言えてる?」「『もう1度言って』って声を出してる?」と聞いてみてくださいね。


★補足★


学校と言えば「手を挙げて発言する」とイメージする人が多いように,学校ではとりわけ「発言すること」が重要視されてきたように思います。

「○○のわかる人」
「ハイ! ハイハイハイ!」

というやりとりは,微笑ましい教室の原風景としてメディアなどにもたびたび登場します。
しかし,「教室では手を挙げて発言するものだ」というイメージと同じぐらい(あるいはそれ以上に)「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という”常識”が一般に浸透しています。
実はこのこと自体が,「たくさん発言する人」と「なかなか発言できない人」をつくりあげてしまう要因ではないかと思うのです。

発言とは「正しい答えを正しく話すこと」ではありません。「言葉を出すこと」です。
教師の質問に対して,「きっと先生はこういう答えを求めているんだな」と察した言葉だけが発言ではないのです。「先生,何を聞かれているかさっぱりわかりません」とか「たぶんこういうことなんだけどうまく言えません」というのも立派な発言です。
むしろ,30人以上も子どもがいれば,教師の質問に対してそういう発言がある方がよっぽど自然です。「何を聞かれているかわからない」と言った子どもは,質問をもう一度違う言葉で聞くことができるでしょう。「たぶんこういうことだろう…」と口に出した子どもは,発言が周囲に賛同されることで自信を得る場合もあるでしょう。

そんな機会を子どもたちから奪い,「わからないから黙っておこう」「自信がないから誰かに任せておこう」と思わせてしまっているのが,「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という ”常識” です。

そんな”常識”ヘンじゃないか。
誰だって自分が「わかった!」と言うために必要な発言をするべきじゃないか。

そんな思いで書きました。


「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という ”常識” についてはもう少し書きたいことがあるのですが,それはまた別の機会に。



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2012年5月28日月曜日

学級目標を決める

ひと月も前の話で恐縮ですが,学級目標を決めました。
「どんなクラスにしたい?」と尋ねて,子どもたちから出てきたたくさんの言葉を少しずつまとめ,ひとつの言葉にしました。それがこちら。


あきらめず
つこつと
なかまといっしょ
えをだす
にくみ



昨年度の「すきやき」以上に強引な気もしますが,そこはご愛嬌。
学級だよりのタイトルにすべく,デザインしました。
ちなみに最後の「こえをだす」だけは,私の願いです。それについては,今後の学級だより&補足でちょこちょこと書いていきたいと思います。


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2012年4月2日月曜日

年度末のご挨拶 ~子ども編~

4月になり,新年度の準備も始まっていますが,前回の記事の最後に書いた「ちょっと別のこと」をまだ載せられていなかったので,なんとなく年度末の気分でした。平成23年度最後のおたよりのタイトルは「3年○組を卒業するみんなへ」です。


★以下 平成24年3月23日学級だより「すきやき」より★


3年○組がスタートしてもうすぐ1年がたちます。着任式(ちゃくにんしき)の日,運動場で田中先生を見て 「どんな先生なんだろう」「こわい先生かな」とドキドキしていたみなさんの顔を,今でも思い出します。みんなにとって田中先生はどんな先生でしたか。みんなにとって3年○組はどんなクラスでしたか。

4年生になれた人も,そうでない人(?)も,この仲間(なかま)や田中先生と一緒(いっしょ)にすごすのは今日でおしまいですね。最後(さいご)の日ですので,田中先生からみんなにお別(わか)れの言葉を書こうと思います。お別れの言葉といっても,田中先生がずっと言い続(つづ)けてきたことなので,「またか」と思う人がいるかもしれません。でも,4年生になっても5年生になっても,6年生になっても絶対(ぜったい)にわすれないでほしいことです。だから,しつこいけれど書いちゃいます。


自分で考える

友だちの言うことを聞くのは大切です。でも,友だちがいつでも正しいとはかぎりません。本当に正しいかどうか,それを考えるのは自分なのです。
考えるヒントは「どんな自分になりたいか」です。
「○○さんもやってた」とか「□□さんがやれって言った」という人は自分で考えていません。○○さんが何をしようが,□□さんが何を言おうが「どんな自分になりたいか」を考えてください。 


先生がいないときに,本当の自分が出てくる

先生に言われてから行動する人は,先生がいなくなると何もできません。
先生がこわいからがんばっている人は,先生がいなくなるとがんばれません。
本当の自分は,先生がいないときにわかります。 


伝わるまで伝える あきらめずに伝える

「ごめんなさい」「ありがとう」「○○されていやだった」「それ,おかしいよ」…。どんな言葉も相手に伝わらなければ意味がありません。一度でうまく伝わらなければ,言い方をかえて何度でも伝えること。「どうせ言ってもむだだから…」とあきらめないこと。


うそをつかない ごまかさない

失敗してもいいのです。まちがってもいいのです。失敗もまちがいも,成長するためのチャンスだからです。「どうして失敗したのだろう」と考えるときに人は成長します。失敗やまちがいをごまかす人は成長しません。


「わからない」は「わかった」への近道

「わかった」からいちばん遠いのは「わかったつもり」です。はずかしがらずに「わからない」「教えて」と口に出して言える人は,かならずわかるようになりますよ。


みんながなかよしじゃなくてもいい みんなが気持ちよくなれるように

人はみんなちがうのだから,考えや意見が合わないのがふつうです。苦手な人がいたっていいのです。ただし,好きな人とも,苦手な人とも,おたがいに気持ちよくすごせるようにしてください。自分だけでなく,相手も気持ちよくすごせるかどうか,です。


やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。ちがう学年になっても,ろうかですれちがったときには「がんばって伝えてるで」とか「『わからない』ってちゃんと言えてるで」と教えてくださいね。


3年4組学級通信「すきやき」はこれでおしまいです。
みんながいたから先生もがんばれました。先生ががんばればがんばるほど,みんなは大きく成長して見せてくれましたね。こんなに大変で,こんなにおもしろいクラスは初めてです。


みんなに会えてよかった。本当にありがとう!




★補足★


この1年間,彼らにいったいどれだけのことを伝えられたのでしょうか。
学習へ取り組む姿勢や友だちとのことなど,私が伝えたかったことの10分の1ほども子どもたちには伝わっていたのでしょうか。
年度末を迎えるにあたって,そんなことばかり考えていました。

とはいえせっかくのおたよりを「お説教」で終わるのはちょっと…と思うので,何度か推敲してこんな形になったわけですが……やっぱり「お説教」ですかね(笑)。
最後の方に書いた
やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。
というのはそんな自分への照れなんだと思います。

子どもたちに向けてメッセージを書いたのは4月当初の「すきやき」以来です。そのこともあって,最後の「すきやき」を配ると子どもたちは食い入るように読んでくれました。慌ただしい年度末のことなので,子どもたちに感想を聞くことができなかったのが残念でした。

今になって少し冷静に振り返ってみると,ひとりの教師が子どもたちにあれもこれも教えられる,と思うことのおこがましさのようなものも感じます。
先生は全部伝えたからあとは君たち次第だよという,ある種の無責任さも感じます。

それでも書かずにいられなかったのは,この1年間の自分の指導への不安の裏返しなのでしょうね。あとは子どもを信じて,自分の指導を信じるのみです。



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2012年3月15日木曜日

続・先生なんていなくても

学級だよりで「来週に続く」なんて,そんなんアリか?とも思ったのですが…。お付き合いください。


★以下 平成24年2月17日学級だより「すきやき」より★ 


「4年生になっても田中先生がいいなあ」


この時期になると,こんな嬉しいことを言ってくれる子どもがいます。そんなときは私もつい頬が緩んで「そうやねえ。同じだといいねえ」と答えています。

この1年間(…まだ終わっていませんが),子どもたちは大きく成長しました。授業中に手を挙げて発表できるようになった人,友だちとのトラブルを自分で解決できるようになった人,「わからない」と言えるようになった人,宿題を忘れなくなった人,漢字をとても丁寧に書けるようになった人。
そんな成長を「田中先生のおかげで…」と言ってもらえるのであれば,教師としてこんなに嬉しいことはありません。

そんなことを考えているとき,「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」という先週の言葉が私の耳に重く響きます。それは,子どもたちの成長が本当に子どもたちのものになっているか,ということです。


たとえば「田中先生はシールをくれるから」という理由だけで漢字を丁寧に書き続けてきた人は,シールをもらえなくなったらどういう字を書くでしょうか。「互いが納得するまで話し合わないと田中先生に叱られるから」という理由だけで友だちとのトラブルを解決してきた人は,叱られなくなったら話し合うことをやめてしまうかもしれません。
もちろん,授業中に手を挙げて発表できるようになったきっかけが「田中先生が挙げろというから」でも構いません。宿題を忘れなくなったきっかけが「忘れたら田中先生に怒られるから」でも構いません。しかし,いつまでもそのままではいけないなと思うのです。

「田中先生に怒られるから〇〇する(しない)」の次なるステップは「自分はその方がいいと思うから〇〇する(しない)」です。教育用語では前者を「外発的動機」,後者を「内発的動機」と言います。「外からの力」を動機として行動するのか,「内からの力」を動機として行動するのかの違いです。

難しいのは,どちらの場合も見た目の行動は同じであるということです。
「先生が怖いから」落ち着いて勉強しているのと,「自分がそうしたいから」落ち着いて勉強しているのは,見た目にはほとんど変わりません。その差がはっきりするのは,先生がいなくなったときです(ようやく先週の話につながりました)。
先週書いた自習の日は「先生がいなくなる日」に過ぎません。しかし学年末は「この先ずっと先生がいなくなる」のです。4月になれば,それまでの成長が本当に子どもたちのものになっているかが試され,はっきりと目に見える結果となるのです。

誰の前ででも,どんな仲間の中ででも,自分の力を精一杯伸ばし成長しようとする。そんな人になってほしいと考えて今日まで指導してきました。残り一か月,少しでも多くのことを「内発的動機」でできるようにしていきたいと思います。


先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで――つくづく重い言葉です。





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2012年3月12日月曜日

先生なんていなくても

何とも挑発的なタイトルですね。そのままおたよりのタイトルでもあります。
今回は,これまでの自分の指導を振り返りながら,こんなおたよりを書きました。


★以下 平成24年2月10日学級だより「すきやき」より★


子どもたちに聞いていただければわかりますが,私はときどき自習にします。
授業研究のために他のクラスや他の学校を見に行く場合がほとんどですが,そのたびに子どもたちに話していることがあります。それは「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

4月当初に「前にならえ!…でいいの?」というおたよりを書きました。
誰かに「前にならえ!」と号令をかけてもらうからまっすぐ並ぶのではなく,「今はまっすぐ並んだ方が格好いいぞ」という場面を「自分で判断して」並べる人になってほしい,という話です。
「先生がいないときこそ,本当の力が試されるんやで」というのはその上級編にあたります。

「前にならえ」のような号令でなくとも,教室にいれば先生が指示することはたくさんあります。
「はい,授業始めるよ」といった時間に関わることや「○○さんが話しているよ(注目してね)」といったコミュニケーションに関わることまで,子どもたちは「先生の言葉」を浴びながら生活し,学んでいるのです。そんな環境においては,自分で「授業が始まる時間だから用意しておこう」とか「○○さんの方を見て話を聞こう」というように考えていなくても,「先生の言葉」によって「あ,そうか」と気がつくことができます。

ところが,普段からその状態(先生の言葉を聞いて行動すること)に慣れている人は,いざ先生がいなくなってみると,授業が始まる時間や,○○さんが話していることに気がつきません。指摘されないとわからないのです。また,先生が教室にいることで「あ,先生が怖い顔してるな」とか「そろそろやめておかないと怒られそうだ」というように,先生の顔色をうかがうこともできます。
いずれにしても「先生がそう言ったから」とか「先生に怒られるから」というような理由で,自分の行動を考えるわけです。

「先生に怒られるから」がんばる子どもと「その方がいいと自分で思うから」がんばる子ども。
困ったことに見た目ではほとんど区別がつきません。どちらもがんばっています。ところがいざ先生がいなくなってみると,その差ははっきりと表れます。「先生に怒られるから」がんばっていた子は,怒る人がいなくなればがんばる理由もなくなります。逆に「その方がいいと自分で思うから」がんばっていた子は,怒る人がいようがいまいが変わりません。これが「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

実はこの言葉,年度末になるといつも私の耳に重く響くのですが,その話は次の機会にお預けですね。ではまた来週。


★補足★


「ではまた来週」で終わるおたよりなんて,我ながら前代未聞です。短くまとめられるのが一番なのですが,私の稚拙な文章力では短くなっただけ内容が削がれてしまう気がして,相変わらずダラダラと伸びてしまいます。



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2012年2月27日月曜日

いじめが始まるとき その3

「いたずらのつもりがついやりすぎて…」
「遊びがエスカレートして…」

その結果,「遊び」や「いたずら」じゃ済まされないような状況になることがあります。
ひとつずつの行為を「これは〇,これは×」というように仕分けすることはできません。かといって「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言い聞かせたところで,子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

むしろ,大人が「いたずらが過ぎた」「遊びがエスカレートした」と判断し,「いたずらにも程がある」「遊び方を考えなさい」と指導することで,子どもに「いたずら(遊び)の延長」という免罪符を与えてしまっているのではないか。

前回の記事ではそんなことを書きました。


私自身,これまで幾度となく同じようなやりとりをしてきました。そして,遊びをエスカレートさせてしまった子どもに「○○してごめんね」と謝らせることでその場を取り繕ってきたのです。しかし,そのような指導について考えさせられる出来事がありました。



仲の良い3人組のひとり(C)が,泣いていました。
他の2人(A,B)が遊びをエスカレートさせてしまったのが原因です。もちろんそれはAとBにとっても「自分がされたら嫌なこと」。それでも2人には,Cの「やめて」という訴えが届きませんでした。

Cが私に訴えたことで,AもBもようやく気がついたのでしょう。すぐに「ごめんね」と謝りました。

「ごめんね,はもちろん大切なんだけど…」

2人とも反省している様子なので,少し聞いてみることにしました。

「あなたたちは自分がされて嫌なことを友だちにするの?」

「…しません」

「でも,今回はしちゃったわけだ。どうしてなのか考えてごらん」

我ながら難しい問いです。
しかし,2人のうちの1人が,少し考えてからこう言いました。

「楽しかったから」

その言葉を聞いた瞬間,むくむくと怒りがこみ上げてきました。
「友だちの嫌がることをしておいて,楽しいとは何事か」
そんな言葉が喉元まで出かかったとき,「待てよ」と思ったのです。

その「楽しい」こそが,常識を狂わせているのではないか。
その「楽しい」こそが,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」という当たり前のことを忘れさせてしまっているのではないか。

だとすると,子どもたちが学ぶべきことは「○○してはいけません」ではありません。

「自分にとって『楽しい』は,他の人にとっても『楽しい』だろうかと考える」

「自分が『楽しい』と思っているときは,他の人の気持ちに気がつきにくい」

そういうことを学ぶべきではないでしょうか。



そんな風に考えて書いたのが,前々回の記事「いじめが始まるとき その1」でした。



★★



2週にわたって書いてきた「いじめが始まるとき その1」の補足は,これで終わりです。

もちろん,これ以外にもいじめが始まる瞬間はたくさんあります。もっとドロドロした悪意ある「いじめの始まるとき」に比べれば,「遊びの延長」なんて可愛いものかもしれません。

しかし。

「遊び」「楽しい」「冗談」「ふざけ」
そんな言葉の陰で誰かが心を痛めているとしたら。

その「誰か」が周囲の雰囲気に気を遣う(空気を読む)あまり,心の痛みを口にできないとしたら。

その結果,本人の意思とは無関係に「ヤラレ役」「いじられ役」などという役割を背負わされるとしたら。

傍目にはごく自然な形で,静かに,いじめが始まっているのではないでしょうか。






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2012年2月21日火曜日

いじめが始まるとき その2

「最近の子どもは加減を知らない」

そんな言葉を耳にすることがあります。
昔の子どもだってよくケンカもしたし,悪いこともした。だけど「これはやったらあかん」ということだけはわかっていた。越えてはいけない線を知っていた。年上も年下もみんなで一緒に遊んでいたから,必然的に小さい子や弱い子をかばっていた。云々。

「最近の子ども」に限った話なのかは知りませんが,「子どもが加減を知らない」ということは実感します。しかし教師としては「子どもが加減を知らない」と嘆いていても仕方ありません。前回の記事を書くときにはそんなことを考えていました。


前回の記事の内容を,もう少し具体的にしてみます。

たとえばAとBでプロレス遊び(古い?)なんかをしているとき。
技をかけられたBが「痛い痛い!」と叫びます。プロレス「遊び」ですから,技をかけているAはそれでも遊んでいるつもり。「痛い痛い!」の声も遊びのうち。
そのうちBが泣いたり,後になって先生に訴えたりして,Aはこんな風に聞かれます。

「なんでそんなことしたの」

Aにとってそれは遊びでした。Bを傷めつけてやろうとか,痛い目に遭わせてやろうとか,そういう気持ちでいるわけではありません。Bにとっても"はじめは"遊びだったのかもしれません。
だからAはこう言います。

「遊んでただけ」


こんなとき,教師はどう指導すればいいのでしょう。

「○○の技まではいいけど,△△の技はやめておこう」とか「□□の技をするなら力を抜こう」というように,「加減の仕方」をAに教えればそれでいいのでしょうか。
もちろん違います。そもそもそんなことは不可能です。
プロレス技だけでなく,「していいこと」「してはいけないこと」をひとつずつ区別するのには限界があります。たとえば「肩をたたく」。

「おはよう!」と肩をたたく。
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく。
「肩こってますねえ」と肩をたたく。
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく。

それぞれにたたく手の形や強さは違うでしょうが,それらをひとつずつ区別して「これはOK」「これはダメ」なんて言うのは不可能です。


実際にはもう少し現実的な指導をすることになります。
それが「自分がされて嫌なことは,相手にもしない」というものです。

「おはよう!」と肩をたたかれる → 嫌じゃない
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく → 嫌じゃない
「肩こってますねえ」と肩をたたく → 嫌じゃない
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく → 嫌だ

確かにこの決まりに従えば,ひとつずつの行為に対して「していいこと」「してはいけないこと」と区別する必要なく,相手が嫌がるだろうことだけを抑えられます。
ところが子どもはそんなこと百も承知です。「自分がされて嫌なことは,相手にもしてはいけません」と言われて「なるほど!そうか!」と思えるほど無知な小学生はまずいません。子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

教「なんでそんなことしたんだ」
A「遊んでいただけです」
教「遊んでいた,と言うが,もしAが同じことをされたらどうだ」
A「嫌な気持ちになります」
教「でも,Aは自分がされて嫌なことを,友だちにしてるじゃないか」
A「……」
教「これからどうしたらいいか言いなさい」
A「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」

このやりとりで,Aはいったい何を学ぶのでしょう。
私が教師をしていていちばん怖いと思うのはここです。
こんなやりとりが何度か続けば,Aは「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言っておけば先生は許してくれるんだな,と学ぶかもしれません。
あるいは,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」とわかってはいたけれど,ついやってしまったと言えば許されるんだな,と学ぶかもしれません。

何より怖いのは,本当に悪意をもって誰かに嫌がらせをしたとしても「遊んでいただけです」と言えばこういう展開になって許されるだろう,と学ぶことです。


冒頭に書いたプロレス遊びの件は,それだけを見て「いじめ」とは言えないのかもしれません。実際に,多くの同じような事例が「遊びの延長でついやりすぎて…」とか「遊びがエスカレートして…」というような言い方で解決していきます。

しかし,そこに私たち教師はどれほどの指導をしているでしょうか。

「遊び方を考えなさい」
「ほどほどに遊ぶんだぞ」

そんな指導で子どもたちに伝わるものは,いったい何なのか。
悪質ないじめが起こったときの「言い訳」を与えてしまってはいないか。

そんなことを考えながら書きました。


…すみません,もう少し続きそうです。





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2012年2月13日月曜日

いじめが始まるとき その1

いじめはいけない。いじめはダメなことだ。
そんなこと,誰だってわかっています。小学生に「いじめってどう思う?」と聞けば,「だめ!」とか「かっこ悪い!」というように,100%否定するでしょう。
それでもいじめはなくなりません。今回は「いじめはいけない」とわかっている子どもたちの中に,どうやっていじめが生まれるのか,そんなことを考えてみました。


★以下 平成24年2月3日学級だより「すきやき」より★


休み時間,子どもたちは色々に関わって遊んでいます。互いに手を抜いて押し合ったり,誰かを持ち上げて振り回したりというような「じゃれあい」や「悪ふざけ」もそのひとつです。

大きな怪我につながらない範囲で互いに楽しんでいる分には,特に問題になることはありません。どちらかが「やめてー」と言い出すか,誰かに「やめときや」と言われる頃には,そんな「じゃれあい」も終わりになります。ところがこの「やめて」の見極めが難しい。さっきまで皆が「楽しい」と思っていたわけですから,「やめて」が本気なのか,楽しさ半分に言っているのか,そこがわからないのです。

「何度も『やめて』って言ってるのに,どうしてやめてくれないの」

「え? 楽しそうにしてたやん。ホンマにやめてほしかったの?」

トラブルになってから改めて聞いてみると,こんなやりとりになることはよくあります。


やめてと言っている人に何かをし続けるのは間違っている。常識的にはそうです。しかし,実際には「やめて」の声が届かないことの方が多いのではないでしょうか。
それは,決して特別なことではありません。私たちは,テレビに出てくるお笑い芸人がひどい目に遭っている姿を見て「楽しい」と笑います。身近なところでは「いじられ役」という言葉があるように,仲間うちでも「他人にからかわれる人」の存在を暗に認めています。「○○はいじられ役だから」という言い方で,まるでその人が自ら好んで「いじられて(=からかわれて)」いるかのような言い方さえします。そんなとき,お笑い芸人やいじられ役の口にする「やめてくださいよ~」は,訴えなどではなく,見る者の楽しさを増すものでしかないのです。

お笑い芸人はそれが仕事ですし,そうでなくとも「いじられ役」と呼ばれることを嬉しいと思う人もいるかも知れません。しかし,当の本人が「楽しい」「嬉しい」とは思えないのであれば,それは単なるいじめです。いくら「楽しそうにしてたやん」と思っても,相手が同じように楽しんでいないのであれば,ただの嫌がらせです。

子どもたちは「自分がされて嫌なことは,人にもしてはいけないよ」と言えば素直にハイと言うでしょう。しかし本当に怖いのは「自分がされて嫌なことは,人にもしない」という当たり前のルールが,「楽しい」という感情の前では忘れられてしまうことがある,ということではないでしょうか。

★★

子どもたちに「楽しいって,怖いね」と話しました。するとある人がこんなことを話してくれました。

「私は友だちが『やめてー』と言いながら逃げているところを見て,思わず笑ってしまいました。今考えると,私も同じようにいじめてしまっているのかもしれないと思います。」

そのときの様子を思い出し,涙ながらに話す姿を見て「そういうことか」と思った人がいたようです。「同じように感じた人はいますか」と尋ねると,ちらほらと手が挙がりました。

「自分は外遊びのときに,友だちの失敗するところを見てみんなで笑ってしまっていたけど,その人がどう思っていたかはわからない。もしかしたら『嫌だなあ』と思っていたかもしれない。」

そうやって,自分のことに置き換えて考えている人もいました。

じゃれあいの遊びも本人たちが納得してこそ,です。「楽しい」の先にあるものが,ただの嫌がらせになっていないか,楽しいなあと思っているときこそ要注意なんやね,と話しました。




★補足★




記事のタイトルは【「楽しい」の先にあるもの】でした。
補足を書こうと思ったのですが,ちょっと長くなりそうなので続きます。




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2012年1月5日木曜日

新・係活動

あけましておめでとうございます。

みなさんは,小学校の頃,どんな係をしていましたか? 私は不真面目な小学生だったので,係の仕事をすっぽかして外に遊びに行っていました。それでも必ずどこかの係に入って(入らされて?)いたことだけは覚えています。

以前,そもそも係活動ってなんのため?ということを考えて,係活動まっさかり!という記事を書きました。9月の記事ですが,6月ごろのおたよりに載せた文章です。それから半年が経ち,係活動のあり方について考え直す機会がありました。


★以下 平成23年12月16日学級だより「すきやき」より★


係活動については,6月ごろに一度ご紹介しました。そのときは,係(学級を楽しくする仕事)と当番(学級に必要な仕事)の違いや,「こうすればもっとみんなが楽しくなるにちがいな い」という工夫こそ係活動の真骨頂,ということを書きました。それから半年――。
活動が停滞してきた時期を見計らっては係を再編し,何度目かの新しい係活動を始めて一週間後のことです。ひとりの子どもがこんなことを言いにきました。

「係を決めたばっかりだけど,○○係に替えたらだめですか?」

「何かいやなことでもあった?」

「そうじゃないんだけど…,○○係なら□□もできそうだし…。」

何年か前の私なら「一度自分が決めた係なんだから,最後までがんばりなさい」と言っていたでしょう。確かに「自分の決めたことを最後までやり通す」ことは大切です。でもそれって,私の考える係活動の目標とは違うんじゃないかな,と思うようになりました。

私は「係活動では,みんなを楽しませたり,過ごしやすくしたりする工夫をしよう」と伝えてきました。子どもが「仲のいい友だちが○○係にいるから」とか「△△係に飽きたから」ではなく,「○○係にいけばもっと学級を楽しくできそうだ」と考えているのであれば,「それでも我慢してがんばりなさい」と言うよりも「○○係で思い切りやってごらん」と言う方が,よっぽど係活動が充実するのではないかと思うのです。

結局,その子には少しだけ待ってもらって,係活動のルールを大幅に変えました。

・ 誰でも,好きなときに係に入ったり抜けたりすることができる。

・ 誰でも,好きなときに新しい係をつくることができる。

円滑に進めるための細かいルールはいくつかありますが,大きな変更はこの2つです。いつでも係を替えられるように,自分のしている係活動をポスターではなくマグネットで掲示できるようにしました。

さてどうなるかな,と思いながらスタートしました。折しも今週末には「パーティー係」が主催したクリスマスパーティーがあります。いま最も旬なこの係には,8人が関わっています。クリスマスパーティーが終わった後にどうなるか,それも楽しみですね。

せっかくですので現在の係をご紹介します。名前だけ見ていると「なんじゃそりゃ」と思うものもありますね。詳しい活動は,子たちに尋ねてみてください。

・ あそび係
・ 人形げき係
・ たんじょう日係
・ 3D紙しばい係
・ キラキラ係
・ 音楽係
・ ものまね係
・ パーティー係
・ 理科係


★補足★


今さらなんですが,学習指導要領には何と書いてあるのか,ふと気になりました。
(イ)係活動
係活動は,学級の児童が学級内の仕事を分担処理するために,自分たちで話し合って係の組織をつくり,全員で幾つかの係に分かれて自主的に行う活動であり,児童の力で学級生活を豊かにすることをねらいとしている。したがって,設置する係の種類や数は,学年や学級によって異なるので,児童が十分に創意工夫して計画し活動できるよう適切に指導することが望まれる。
「学級内の仕事を分担処理するために……行う活動」というのが少し気になります。ただ「児童の力で学級生活を豊かにすることをねらいとしている」 ということなので,目標としているところはそう間違っていないようです。ホッとしました。

もう少し読んでいくと,「発達の段階に即した指導のめやす」ということで指導の参考例が載っていたので,これも引用しておきます。( )は原文の脱字を補ったものです。
<中学年の指導> 
低学年までの係活動の経験を生かして,創意工夫を加えて活動に取り組めるようにする。また,低学年の係活動には,当番的な活動内容が残っていることもあ(る)ことから,中学年において,それらを整理統合して,児童の創意工夫が生かせるような係活動として組織できるよう配慮する。また,集団の意識も強まり,継続的に仕事を進めることができるようになるので,協力して,計画的に活動に取り組めるようにすることが大切である。さらに,それぞれの係がその活動を独自に進めるだけではなく,活動の計画や悩みなどを学級会の議題とし,お互いの意見や希望を聞くようにして,係活動の改善に取り組めるようにするなどして,協力し合って楽しい学級生活をつくるための係活動として取り組むことができるように適切な指導をすることが大切である。
なお,係活動を活発にするためには,係活動の連絡や発表の機会を朝の会や帰りの会など多様に設けることが効果的である。
改めて読むと,中学年においては「計画的に取り組むこと」や「係ごとが互いに協力し合うこと」なども指導していく必要があるようです。まだまだ先は長いですね。
最後の一文については少し書きたいこともあるのですが,愚痴になってしまいそうなのでここではやめておきます(笑)。





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