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2012年4月2日月曜日

年度末のご挨拶 ~子ども編~

4月になり,新年度の準備も始まっていますが,前回の記事の最後に書いた「ちょっと別のこと」をまだ載せられていなかったので,なんとなく年度末の気分でした。平成23年度最後のおたよりのタイトルは「3年○組を卒業するみんなへ」です。


★以下 平成24年3月23日学級だより「すきやき」より★


3年○組がスタートしてもうすぐ1年がたちます。着任式(ちゃくにんしき)の日,運動場で田中先生を見て 「どんな先生なんだろう」「こわい先生かな」とドキドキしていたみなさんの顔を,今でも思い出します。みんなにとって田中先生はどんな先生でしたか。みんなにとって3年○組はどんなクラスでしたか。

4年生になれた人も,そうでない人(?)も,この仲間(なかま)や田中先生と一緒(いっしょ)にすごすのは今日でおしまいですね。最後(さいご)の日ですので,田中先生からみんなにお別(わか)れの言葉を書こうと思います。お別れの言葉といっても,田中先生がずっと言い続(つづ)けてきたことなので,「またか」と思う人がいるかもしれません。でも,4年生になっても5年生になっても,6年生になっても絶対(ぜったい)にわすれないでほしいことです。だから,しつこいけれど書いちゃいます。


自分で考える

友だちの言うことを聞くのは大切です。でも,友だちがいつでも正しいとはかぎりません。本当に正しいかどうか,それを考えるのは自分なのです。
考えるヒントは「どんな自分になりたいか」です。
「○○さんもやってた」とか「□□さんがやれって言った」という人は自分で考えていません。○○さんが何をしようが,□□さんが何を言おうが「どんな自分になりたいか」を考えてください。 


先生がいないときに,本当の自分が出てくる

先生に言われてから行動する人は,先生がいなくなると何もできません。
先生がこわいからがんばっている人は,先生がいなくなるとがんばれません。
本当の自分は,先生がいないときにわかります。 


伝わるまで伝える あきらめずに伝える

「ごめんなさい」「ありがとう」「○○されていやだった」「それ,おかしいよ」…。どんな言葉も相手に伝わらなければ意味がありません。一度でうまく伝わらなければ,言い方をかえて何度でも伝えること。「どうせ言ってもむだだから…」とあきらめないこと。


うそをつかない ごまかさない

失敗してもいいのです。まちがってもいいのです。失敗もまちがいも,成長するためのチャンスだからです。「どうして失敗したのだろう」と考えるときに人は成長します。失敗やまちがいをごまかす人は成長しません。


「わからない」は「わかった」への近道

「わかった」からいちばん遠いのは「わかったつもり」です。はずかしがらずに「わからない」「教えて」と口に出して言える人は,かならずわかるようになりますよ。


みんながなかよしじゃなくてもいい みんなが気持ちよくなれるように

人はみんなちがうのだから,考えや意見が合わないのがふつうです。苦手な人がいたっていいのです。ただし,好きな人とも,苦手な人とも,おたがいに気持ちよくすごせるようにしてください。自分だけでなく,相手も気持ちよくすごせるかどうか,です。


やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。ちがう学年になっても,ろうかですれちがったときには「がんばって伝えてるで」とか「『わからない』ってちゃんと言えてるで」と教えてくださいね。


3年4組学級通信「すきやき」はこれでおしまいです。
みんながいたから先生もがんばれました。先生ががんばればがんばるほど,みんなは大きく成長して見せてくれましたね。こんなに大変で,こんなにおもしろいクラスは初めてです。


みんなに会えてよかった。本当にありがとう!




★補足★


この1年間,彼らにいったいどれだけのことを伝えられたのでしょうか。
学習へ取り組む姿勢や友だちとのことなど,私が伝えたかったことの10分の1ほども子どもたちには伝わっていたのでしょうか。
年度末を迎えるにあたって,そんなことばかり考えていました。

とはいえせっかくのおたよりを「お説教」で終わるのはちょっと…と思うので,何度か推敲してこんな形になったわけですが……やっぱり「お説教」ですかね(笑)。
最後の方に書いた
やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。
というのはそんな自分への照れなんだと思います。

子どもたちに向けてメッセージを書いたのは4月当初の「すきやき」以来です。そのこともあって,最後の「すきやき」を配ると子どもたちは食い入るように読んでくれました。慌ただしい年度末のことなので,子どもたちに感想を聞くことができなかったのが残念でした。

今になって少し冷静に振り返ってみると,ひとりの教師が子どもたちにあれもこれも教えられる,と思うことのおこがましさのようなものも感じます。
先生は全部伝えたからあとは君たち次第だよという,ある種の無責任さも感じます。

それでも書かずにいられなかったのは,この1年間の自分の指導への不安の裏返しなのでしょうね。あとは子どもを信じて,自分の指導を信じるのみです。



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2012年2月27日月曜日

いじめが始まるとき その3

「いたずらのつもりがついやりすぎて…」
「遊びがエスカレートして…」

その結果,「遊び」や「いたずら」じゃ済まされないような状況になることがあります。
ひとつずつの行為を「これは〇,これは×」というように仕分けすることはできません。かといって「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言い聞かせたところで,子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

むしろ,大人が「いたずらが過ぎた」「遊びがエスカレートした」と判断し,「いたずらにも程がある」「遊び方を考えなさい」と指導することで,子どもに「いたずら(遊び)の延長」という免罪符を与えてしまっているのではないか。

前回の記事ではそんなことを書きました。


私自身,これまで幾度となく同じようなやりとりをしてきました。そして,遊びをエスカレートさせてしまった子どもに「○○してごめんね」と謝らせることでその場を取り繕ってきたのです。しかし,そのような指導について考えさせられる出来事がありました。



仲の良い3人組のひとり(C)が,泣いていました。
他の2人(A,B)が遊びをエスカレートさせてしまったのが原因です。もちろんそれはAとBにとっても「自分がされたら嫌なこと」。それでも2人には,Cの「やめて」という訴えが届きませんでした。

Cが私に訴えたことで,AもBもようやく気がついたのでしょう。すぐに「ごめんね」と謝りました。

「ごめんね,はもちろん大切なんだけど…」

2人とも反省している様子なので,少し聞いてみることにしました。

「あなたたちは自分がされて嫌なことを友だちにするの?」

「…しません」

「でも,今回はしちゃったわけだ。どうしてなのか考えてごらん」

我ながら難しい問いです。
しかし,2人のうちの1人が,少し考えてからこう言いました。

「楽しかったから」

その言葉を聞いた瞬間,むくむくと怒りがこみ上げてきました。
「友だちの嫌がることをしておいて,楽しいとは何事か」
そんな言葉が喉元まで出かかったとき,「待てよ」と思ったのです。

その「楽しい」こそが,常識を狂わせているのではないか。
その「楽しい」こそが,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」という当たり前のことを忘れさせてしまっているのではないか。

だとすると,子どもたちが学ぶべきことは「○○してはいけません」ではありません。

「自分にとって『楽しい』は,他の人にとっても『楽しい』だろうかと考える」

「自分が『楽しい』と思っているときは,他の人の気持ちに気がつきにくい」

そういうことを学ぶべきではないでしょうか。



そんな風に考えて書いたのが,前々回の記事「いじめが始まるとき その1」でした。



★★



2週にわたって書いてきた「いじめが始まるとき その1」の補足は,これで終わりです。

もちろん,これ以外にもいじめが始まる瞬間はたくさんあります。もっとドロドロした悪意ある「いじめの始まるとき」に比べれば,「遊びの延長」なんて可愛いものかもしれません。

しかし。

「遊び」「楽しい」「冗談」「ふざけ」
そんな言葉の陰で誰かが心を痛めているとしたら。

その「誰か」が周囲の雰囲気に気を遣う(空気を読む)あまり,心の痛みを口にできないとしたら。

その結果,本人の意思とは無関係に「ヤラレ役」「いじられ役」などという役割を背負わされるとしたら。

傍目にはごく自然な形で,静かに,いじめが始まっているのではないでしょうか。






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2012年2月21日火曜日

いじめが始まるとき その2

「最近の子どもは加減を知らない」

そんな言葉を耳にすることがあります。
昔の子どもだってよくケンカもしたし,悪いこともした。だけど「これはやったらあかん」ということだけはわかっていた。越えてはいけない線を知っていた。年上も年下もみんなで一緒に遊んでいたから,必然的に小さい子や弱い子をかばっていた。云々。

「最近の子ども」に限った話なのかは知りませんが,「子どもが加減を知らない」ということは実感します。しかし教師としては「子どもが加減を知らない」と嘆いていても仕方ありません。前回の記事を書くときにはそんなことを考えていました。


前回の記事の内容を,もう少し具体的にしてみます。

たとえばAとBでプロレス遊び(古い?)なんかをしているとき。
技をかけられたBが「痛い痛い!」と叫びます。プロレス「遊び」ですから,技をかけているAはそれでも遊んでいるつもり。「痛い痛い!」の声も遊びのうち。
そのうちBが泣いたり,後になって先生に訴えたりして,Aはこんな風に聞かれます。

「なんでそんなことしたの」

Aにとってそれは遊びでした。Bを傷めつけてやろうとか,痛い目に遭わせてやろうとか,そういう気持ちでいるわけではありません。Bにとっても"はじめは"遊びだったのかもしれません。
だからAはこう言います。

「遊んでただけ」


こんなとき,教師はどう指導すればいいのでしょう。

「○○の技まではいいけど,△△の技はやめておこう」とか「□□の技をするなら力を抜こう」というように,「加減の仕方」をAに教えればそれでいいのでしょうか。
もちろん違います。そもそもそんなことは不可能です。
プロレス技だけでなく,「していいこと」「してはいけないこと」をひとつずつ区別するのには限界があります。たとえば「肩をたたく」。

「おはよう!」と肩をたたく。
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく。
「肩こってますねえ」と肩をたたく。
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく。

それぞれにたたく手の形や強さは違うでしょうが,それらをひとつずつ区別して「これはOK」「これはダメ」なんて言うのは不可能です。


実際にはもう少し現実的な指導をすることになります。
それが「自分がされて嫌なことは,相手にもしない」というものです。

「おはよう!」と肩をたたかれる → 嫌じゃない
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく → 嫌じゃない
「肩こってますねえ」と肩をたたく → 嫌じゃない
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく → 嫌だ

確かにこの決まりに従えば,ひとつずつの行為に対して「していいこと」「してはいけないこと」と区別する必要なく,相手が嫌がるだろうことだけを抑えられます。
ところが子どもはそんなこと百も承知です。「自分がされて嫌なことは,相手にもしてはいけません」と言われて「なるほど!そうか!」と思えるほど無知な小学生はまずいません。子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

教「なんでそんなことしたんだ」
A「遊んでいただけです」
教「遊んでいた,と言うが,もしAが同じことをされたらどうだ」
A「嫌な気持ちになります」
教「でも,Aは自分がされて嫌なことを,友だちにしてるじゃないか」
A「……」
教「これからどうしたらいいか言いなさい」
A「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」

このやりとりで,Aはいったい何を学ぶのでしょう。
私が教師をしていていちばん怖いと思うのはここです。
こんなやりとりが何度か続けば,Aは「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言っておけば先生は許してくれるんだな,と学ぶかもしれません。
あるいは,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」とわかってはいたけれど,ついやってしまったと言えば許されるんだな,と学ぶかもしれません。

何より怖いのは,本当に悪意をもって誰かに嫌がらせをしたとしても「遊んでいただけです」と言えばこういう展開になって許されるだろう,と学ぶことです。


冒頭に書いたプロレス遊びの件は,それだけを見て「いじめ」とは言えないのかもしれません。実際に,多くの同じような事例が「遊びの延長でついやりすぎて…」とか「遊びがエスカレートして…」というような言い方で解決していきます。

しかし,そこに私たち教師はどれほどの指導をしているでしょうか。

「遊び方を考えなさい」
「ほどほどに遊ぶんだぞ」

そんな指導で子どもたちに伝わるものは,いったい何なのか。
悪質ないじめが起こったときの「言い訳」を与えてしまってはいないか。

そんなことを考えながら書きました。


…すみません,もう少し続きそうです。





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2012年2月13日月曜日

いじめが始まるとき その1

いじめはいけない。いじめはダメなことだ。
そんなこと,誰だってわかっています。小学生に「いじめってどう思う?」と聞けば,「だめ!」とか「かっこ悪い!」というように,100%否定するでしょう。
それでもいじめはなくなりません。今回は「いじめはいけない」とわかっている子どもたちの中に,どうやっていじめが生まれるのか,そんなことを考えてみました。


★以下 平成24年2月3日学級だより「すきやき」より★


休み時間,子どもたちは色々に関わって遊んでいます。互いに手を抜いて押し合ったり,誰かを持ち上げて振り回したりというような「じゃれあい」や「悪ふざけ」もそのひとつです。

大きな怪我につながらない範囲で互いに楽しんでいる分には,特に問題になることはありません。どちらかが「やめてー」と言い出すか,誰かに「やめときや」と言われる頃には,そんな「じゃれあい」も終わりになります。ところがこの「やめて」の見極めが難しい。さっきまで皆が「楽しい」と思っていたわけですから,「やめて」が本気なのか,楽しさ半分に言っているのか,そこがわからないのです。

「何度も『やめて』って言ってるのに,どうしてやめてくれないの」

「え? 楽しそうにしてたやん。ホンマにやめてほしかったの?」

トラブルになってから改めて聞いてみると,こんなやりとりになることはよくあります。


やめてと言っている人に何かをし続けるのは間違っている。常識的にはそうです。しかし,実際には「やめて」の声が届かないことの方が多いのではないでしょうか。
それは,決して特別なことではありません。私たちは,テレビに出てくるお笑い芸人がひどい目に遭っている姿を見て「楽しい」と笑います。身近なところでは「いじられ役」という言葉があるように,仲間うちでも「他人にからかわれる人」の存在を暗に認めています。「○○はいじられ役だから」という言い方で,まるでその人が自ら好んで「いじられて(=からかわれて)」いるかのような言い方さえします。そんなとき,お笑い芸人やいじられ役の口にする「やめてくださいよ~」は,訴えなどではなく,見る者の楽しさを増すものでしかないのです。

お笑い芸人はそれが仕事ですし,そうでなくとも「いじられ役」と呼ばれることを嬉しいと思う人もいるかも知れません。しかし,当の本人が「楽しい」「嬉しい」とは思えないのであれば,それは単なるいじめです。いくら「楽しそうにしてたやん」と思っても,相手が同じように楽しんでいないのであれば,ただの嫌がらせです。

子どもたちは「自分がされて嫌なことは,人にもしてはいけないよ」と言えば素直にハイと言うでしょう。しかし本当に怖いのは「自分がされて嫌なことは,人にもしない」という当たり前のルールが,「楽しい」という感情の前では忘れられてしまうことがある,ということではないでしょうか。

★★

子どもたちに「楽しいって,怖いね」と話しました。するとある人がこんなことを話してくれました。

「私は友だちが『やめてー』と言いながら逃げているところを見て,思わず笑ってしまいました。今考えると,私も同じようにいじめてしまっているのかもしれないと思います。」

そのときの様子を思い出し,涙ながらに話す姿を見て「そういうことか」と思った人がいたようです。「同じように感じた人はいますか」と尋ねると,ちらほらと手が挙がりました。

「自分は外遊びのときに,友だちの失敗するところを見てみんなで笑ってしまっていたけど,その人がどう思っていたかはわからない。もしかしたら『嫌だなあ』と思っていたかもしれない。」

そうやって,自分のことに置き換えて考えている人もいました。

じゃれあいの遊びも本人たちが納得してこそ,です。「楽しい」の先にあるものが,ただの嫌がらせになっていないか,楽しいなあと思っているときこそ要注意なんやね,と話しました。




★補足★




記事のタイトルは【「楽しい」の先にあるもの】でした。
補足を書こうと思ったのですが,ちょっと長くなりそうなので続きます。




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2011年11月8日火曜日

楽しく勝つ。楽しく負ける。

一般に,ゲームや試合に際して「勝ち負けにこだわる」とか「負け惜しみを言う」というのは「大人げない」ことだと考えられています。ところが「大人げない」というだけあって,子どもは違います。見事なまでに勝ち負けにこだわり,負け惜しみを言います。そんな「勝ち負け」について考えていることを,おたよりに書きました。


★以下 平成23年10月28日学級だより「すきやき」より★


26日(水)は運動会でした。平日開催だったこともあり,ご都合がつかず,見にくることのできなかった保護者の方もおられるかもしれません。10月下旬の運動会は,じっとしていると少し肌寒いぐらいでした。
さて,3年生のチーム競技「○○○○○○○○○○○○」(台風の目)ですが,本番は○組が勝ちました。それまでの練習では,棒の飛び越しやくぐり方のちょっとしたタイミングに大きく左右されて,勝ち負けは毎回違っていました。練習とはいえ勝負は勝負。そのたびに「1位,○組!」「イエーイ!」というやり取りがあります。

練習で初めて「1位,○組!」と言ったとき,子どもたちの反応は意外なものでした。「やった!」「イエーイ」と声をあげる人がいる一方で,「喜んでいいのかな?」と周囲をうかがう人もいたのです。

「正々堂々と試合をして勝ったのだから,思い切り喜んでいい。でも,自分たちと本気で試合をしてくれた相手にも『ありがとう』『いい勝負だったね』という気持ちを込めて,思い切り拍手しよう」

子どもたちにはそんなふうに話しました。もちろん負けてしまったチームも同じです。

運動会に限らず,休み時間の遊びなどには必ずと言っていいほど「勝ち負け」がついて回ります。
私は「勝負ごとに勝った。うれしい!」とか「負けてしまった。くやしい!」という気持ちになるのは一生懸命遊んだ証拠だと考えています。ところが「勝ち負け」に夢中になるあまり,「ルールを守らない」「負け惜しみを言う」「負かした相手をバカにする」ということも出てきます。そこに欠けているのは「相手がいたから勝負ができた」「相手がいたから勝つことができた」という意識です。
「勝負」は,ひとりぼっちでは絶対にできません。

勝ったときには
「今日は勝ったぞ!試合してくれてありがとう!」

負けたときには
「今日は負けちゃった!悔しいなあ。明日もまたやろう。」

そんなふうに「勝ち負け」にこだわれる人になってほしい。秋晴れの空の下で懸命に走る子どもたちを見ながら,こんなことを考えていました。


★補足★


「負けても楽しい」という感覚って,けっこう高度だと思います。どうやって子どもたちをそこまで成長させるかは……まだまだ手探りの状態です。






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2011年9月30日金曜日

タナカ流喧嘩仲裁術

子どもたちはしょっちゅう喧嘩をします。まさに日常茶飯事です。お奉行さんじゃないけれど,先生ってどうやって仲裁しているの?というお話です。

ちなみに学級だよりでのタイトルは,「タナカ流喧嘩仲裁術 ~仲裁じゃないのよ本当は~」でした。

★以下 平成23年7月15日学級だより「すきやき」より★


以前にも書きましたが,子どもたちはしょっちゅう衝突します。考え方も話し方もみんなそれぞれに違う人たちですから,うまくいかないのは当たり前です。そこをなんとか,自分たちで冷静に解決できればいいのですが,この「冷静に」というのが難しい。片方が冷静でも,もう片方がヒートアップしてしまうと,互いに相手の話が耳に入らなくなってしまいます。

そこでタナカ先生の出番です。保護者の方には「先生って勉強だけじゃなく,喧嘩の仲裁もしなくちゃいけないなんて大変ね」なんて言っていただいております。ところが私,仲裁なんてしているつもりはないのです。

当事者から順番に話を聞いて冷静に判断したのち,「○○さんが悪い。□□さんに謝りなさい」と言い渡すのが喧嘩の仲裁。でもそれってちょっとヘンだなと私は思うのです。そもそも,人と人がぶつかるときに,そんなにキレイに「正しい人」と「間違っている人」が分かれているわけではありません。どちらも「自分が正しい」と信じているからぶつかるのです。ところがその「正しさ(自分の主張)」を,うまく話したり聞いたりできないから,互いに納得できないのだと考えています。

そう考えると,私の仕事はただひとつ。双方が「冷静に」「話して」「聞ける」ように,主張の「交通整理」をすることです。「代弁」ではなく,あくまで「整理」です(ここがポイント)。だから,子ども同士の話し合いの最中,私のセリフはもっぱら
「…だって」
「…だそうだけど?」
「…って言ってるよ」。

こうやって聞き手の反応を促しながら,「今は○○が話す」「次は□□がそれに応える」という時間を整理しています。お気づきかもしれませんが,ものすごく時間のかかるやり取りです。自分の主張に自信がなくなってくると,急に声が小さくなる人もいます。そうなると,聞き手の反応は当然「聞こえないのでもう一度言ってください」です。

こんな面倒な「喧嘩仲裁術」の目的はただひとつ。
「いつかは自分たちで解決できるように」です。

今はまだ何かを話すたびに私の顔を見る子どもたちですが,いつの日か「先生は黙っといて!」と言われることを目指して,日々がんばり(?)ます。


★補足★


はじめに,「お奉行さんじゃないけれど」と書きましたが,子どもたちのトラブルに出会ったときの私はいつもそんな心境です。子どもたちから,色々なトラブルが寄せられるたびに,「ふんふん」と双方の言い分を聞いたのちに

「はい,それは○○が悪い。謝りなさい」

「はい,それは□□が悪い。気持ちも分かるがしかし謝りなさい」

「はい,それはお互い様。互いに謝りなさい」

なんて「判決」を言い渡せたらどんなに楽だろうと思うのですが。それってやっぱり違いますよね。実際には,時間がなくてつい「いや,それはアンタが悪いやろ・・・」なんてことを口にしてしまうときもありますが,可能な限りこんな指導をしているんですよしようと思ってるんですよ!という気持ちを学級だよりに載せました。



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2011年9月5日月曜日

折れたチョークと日曜参観

平成23年5月27日の学級だより「すきやき」より

日曜参観の後のおたよりです。日曜参観には,普段の参観日とは違い,平日は来れない家族の人たちがたくさん見に来てくれます。この日,日曜参観の最中に,保護者の間にあるモノを回してもらいました。授業が終わってから,私の手元に戻ってきたそれは,壊れていました。

少しだけ怒りを込めて書いたおたよりです。
改めて読むと,オブラートに包んで書こうとするあまり意味がわかりにくくなっているので,末尾に補足してあります。


★以下 学級だより「すきやき」より★


日曜参観へのご参加,ありがとうございました。算数と図工の授業をご覧いただきました。当日はあいにくの雨でしたが,教室に入りきらないほど多くの方が来てくださいました。
子どもたちはというと,先日の参観日とはまた異なり,発言や反応に妙に慎重になって黙ってしまう人たちが多かったように思います。
「せっかく来てくれた家の人にいいところを見せたい!」という気持ちのあらわれでしょうが,担任としては「いつもの姿はどこに…」と焦ってしまう参観日でした。


さて,今日の題名「折れたチョークと日曜参観」。なんのこっちゃと思った方も多いことでしょう。

3年4組では,漢字の練習や算数の時間など,子どもたちが黒板に字を書くようにしています。(私なりに考えてのことですが,何のため?という話はまたの機会に)。
ところが,たくさんの人が黒板の周りに集まって字を書いたり掃除をしたりしていると,必ずと言っていいほどチョークが折れます。力の入れ具合で折れることもありますが,折れる原因ナンバーワンは何といっても「落とす」です。

学級が始まって間もない頃,掃除が終わった教室でふと黒板を見ると,折れたチョークがチョーク置きの上に置かれていました。それをみんなに見せてから,次のような話をしました。

「チョークを折ってしまうことは誰にでもある『失敗』です。わざと折ったのでなければ,先生はそれを怒りもしないし,弁償しろとも言いません。でも,チョークを折ってしまった人が,そのことを『ごまかそう』としたり『隠そう』としたりするのは,卑怯です。自分の失敗をウソで隠そうとする姿って,とてもかっこ悪いです。みんなはどういう自分でいたいですか。」

それ以降,折れたチョークが黙って置いてあることは一度もありません。それだけでなく,何かを壊してしまった人は,神妙な面持ちで「先生,○○を壊してしまいました」と言いに来ます。
私の返事はいつも同じ。

「はいわかりました」

「仕方ないね」

「次は気をつけて」

これだけです。 

「物を大切にすることを教えなくていいのか」という意見もあるかも知れません。確かにそうですが,私はそれよりも「自分の失敗を素直に認める」「人にウソをつかない」ことの方がもっと大切だと思います。
「ものを大切にしろ」と怒られるのがイヤで壊したことをごまかしてしまうのなら,順序が逆ではないかと思うのです。



日曜参観の当日,図工の授業中に保護者の方に,こんな物を見ていただきました。





授業で子どもたちが作った「変身カード」よりももう少し難しい「飛び出すカード」です。授業が終わってから,ひとりの子どもがそのカードを持ってきて言いました。

「なんか壊れてたんだって」

「そうか,仕方ないね」

その子は壊れたカードをただ預かってきただけでした。

壊してしまった人を責めたいわけではありません。たくさんの人が手に取る中で,いつの間にか壊れてしまったのかも知れません。小さい子が誤って壊してしまったのかも知れません。ただ,最後まで「先生,○○を壊してしまいました」が聞けなかったことが,残念でした。


★以下 補足です★


最後のあたりがわかりにくいので補足説明します。

「飛び出すカード」が保護者の間を回っている間に壊れてしまったにもかかわらず,誰一人として,「先生,これ壊れてしまったわあ」とか「先生ごめんなあ,ウチの子が壊してしまったみたいやわ」というようなことを言う保護者がいなかった,ということです。
もし,このときたった一言「先生ごめんな,壊してしまったみたいや」と言う保護者がいたら。その姿を,子どもが見ていたら。(往々にして子どもは大人の姿を見ているものです。)「ウソをついたらあかんで」と100回説教するよりもはるかに,子どもにとって意味のある瞬間になったと思うのです。

目の前の子どもたちにとって,それほど大きな「学びのチャンス」をこともあろうに保護者によって潰されてしまったこと。その無念さを何とか伝えたくて,最後の一文を書きました。

今思えば,もっと伝わる書きようがありますね。自分の拙さを痛感します。


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2011年9月2日金曜日

前にならえ!…でいいの?

平成23年5月6日の学級だより「すきやき」より

この日は「号令」について書きました。今回は誰もが知ってる「前にならえ!」にちょっとだけつっこんでみました。


★以下 学級だより「すきやき」より★


耳鼻科検診のために,保健室へ行くときのこと。

「保健室に行くから,名簿順で2列に並んでね。」

と伝えました。進級当初に比べればずいぶん早く並べるようになった子どもたち。よく見ると何人かの子たちが

「前にならえ!」

「前にならえやで,ちゃんとしいや」

と声をかけています。えらいやん,早く並べるようになってきたやん,と声をかけながらこんなことを聞いてみました。

「ところで,なんで『前にならえ』って言うの?」

短い沈黙のあと,何人かの子どもが答えます。

「まっすぐ並ぶため。」

本当はそれだけではないのですが,「ふーんそうか」ととりあえず納得。

「ところで,先生たちや大人が並ぶときには『前にならえ』って言わないけど?」

挑発的な言葉に今度はたくさんの子どもが反応します。

「そりゃそうや,大人やもん。」

「大人はできるやろー。」

「目で見てまっすぐにしてるんちゃう?」

さらに聞きます。

「そうなんや。ところで君たちはどうなん?やっぱり難しいの?」

「できる。」

即答でした。

「じゃやってみよう」ということで早速並んでみます。「できる」というだけあって,あっという間にまっすぐ並ぶことができました。みんな,前の人を見て合わせています。

「あら,できるんやねー。すごいなあ。『前にならえ』いらんかもね。」

なんて褒めながら,耳鼻科検診へ向かいました。



誰かが「前にならえ!」と言ったらそれに合わせて列を整える。じゃあ,誰も「前にならえ!」と言わないときはどうすればいいのでしょう。
「前にならえ!」だけでなく,「気をつけ!」とか「静かにしましょう!」なんて号令もあります。
本当は,誰かが号令をかけるからそうするのではなく,「今は前を向いて姿勢を正した方がいいな」「○○さんが話し始めるな,黙って聞こう」というように「自分で考える」ことが必要ではないでしょうか。
またまた出ました「自分で考える」。


ゴールデンウィーク明け,並ぶ前にはこうやって聞いてみるつもりです。

「廊下に並んでね。……ところで,誰かに『前にならえ!』って言ってもらった方がいい?」

どうなるでしょう。楽しみです。


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2011年8月27日土曜日

「せんせい~…」と呼ばれたら

平成23年4月15日の学級だよりから。

学級が始まってから一週間。毎日のように繰り返される「せんせい~…」の訴え。
あ,ちなみに「せんせい」のアクセントは「インゲン」と同じです。関東圏の方は脳内補正のうえお読みください(笑)。


★以下 学級だより「すきやき」より★


34人の学級では,日々いろいろな「せんせい~…」があります。「せんせい~。トイレ行っていいですか…」「せんせい~。○○はどうしたらいいですか…」などなど。

訴えの中でもいちばん多いのが,「せんせい~。○○さんが××…」というものです。「××」に入る言葉は「あほって言わはる…」とか「じゃましはる…」とか様々です。とっさの対処が必要な怪我や痛みがなければ,私はこんなふうに答えています。

「せんせい~○○さんが××…」

「そうかー。…で,あなたはどうしてほしいの?」

子どもたちは一瞬「へ?」という顔をして,しばらく考えてから,「謝ってほしい」とか「もうしないでほしい」と答えます。中には「先生に怒ってほしい」という人もいますが,そんなときには「先生が怒った後,また××してくるかもしれへんなー」なんて聞いてみます。

ちょっとイジワルに見えるやりとりですが,子どもたちには「できれば自分で解決したいやん?」と話して納得してもらっています。


なんでもかんでも大人に「言いつける」のではなく,自分でできそうなことはできるだけ自分で解決してほしい。そんなふうに考えてのやりとりです。自分たちだけではうまくいかないこともまだまだありますが,これもひとつの「成長」として見守っていきたいですね。


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