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2012年6月19日火曜日

男の好きなもの 女の好きなもの

子どもたちが何気なく口にする「おとこもん」「おんなもん」という言葉。その裏側にある「ふつう」の感覚について,考えてみました。


以下 平成24年5月19日学級だより「にこにこにくみ」より★


学校ホームページにも掲載しましたが,「1年生を迎える会」でかぶってもらうための帽子を作って1年生にプレゼントしました。32個の帽子をダンボールに入れ,箱の外側に絵を描いたりしながらきれいに飾り付けているときのこと。(中間休みに教室にいた何人かの女の子が飾り付けをしてくれました。)

「男の好きなものが全然ないやん。女のばっかりやん」

そんな風に訴えているのは,できあがりつつあるプレゼントを一目見た男の子たちでした。

「男子の好きな絵とか描けへんもん。仕方ないやん」

「そんなん言うんやったら,自分たちで描けばいいやん」

休み時間に飾りつけをしていた女の子たちも,負けじと言い返します。

はじめに訴えた男の子にしてみれば,自分の好みではない絵で埋められたプレゼントに違和感を覚えたのでしょう。それをもらう側の1年生の男の子も,同じように感じるのでは…と思ったのかも知れません。
一方で,一生懸命描いた飾りつけの絵を見るなり「女の絵ばっかりや」と非難されてしまった子どもの気持ちもよくわかります。どちらも言葉が足りないのはもちろんですが,私がなるほどと思ったのは「男の好きなもの」「女の好きなもの」という言葉が子どもたちの中で共有されていることです。箱に描かれていたのは,鳥を模したキャラクターや,ハート,星などのマーク,おめでとうの文字などですが,これらを「女の好きなもの」と呼ぶことには誰も異を唱えないんですね。そこで,「男の好きなもの」「女の好きなもの」と題してクラスの子どもたちに尋ねてみました。

男の好きなもの:ワンピース,ライオン,ドラゴンボール,ドクロマーク,ボール,コーラ…

女の好きなもの:ハート,星,ゆるキャラ,ウサギ,ハムスター,フリル…

たくさん書いていくうちに,「ん?」と思う子どもたちもいたようです。気になったことを尋ねました。

「ワンピースが好きな女の子って,ヘン?」

「ハートや星のマークが好きな男の子は?」

すると「ヘンじゃないけど…少ない」との答え。ウンウンと頷く人もいました。
じゃライオンは?――男女関係ないやん。なるほど,コーラもだ。

ワンピースやドラゴンボールが好きな男の子や,ハートマークやゆるキャラの好きな女の子は確かに多いでしょう。
じゃあワンピースが好きな女の子やゆるキャラが好きな男の子は「おかしい」かというとそうではありません。それぞれに好みが違うなかで,たまたま同じ趣味の人が同性に少ないだけです。
ところが「ワンピースは男の子が好むもの」というのが当たり前のような雰囲気の中では,女の子が「ワンピースが好きなんだけど!」とは言いにくいでしょうね。私自身,小学生の頃に習い事を聞かれて「ピアノを習っている」とは言い出しにくかったのを覚えています。 

たくさんの人が「○○って普通だよね」「○○するのが当たり前だよね」と思っているすぐ近くで,「いや,私は違うんだけどな…」と肩身の狭い思いをしている人がいるかも知れない。「あいつはヘンだ」と思われるのが嫌で本心ではないものを仕方なく選んでいる人がいるかも知れない。そんなことを感じられる人であってほしいと思います。

みんなの考えている「普通」って,本当にそうだろうか。ときどき立ち止まって考えてほしい。

こんなメッセージを伝えた3時間目でした。ご意見・ご感想お待ちしています。


★補足★


何を細かいことを…と考える人もいらっしゃるでしょう。こういうことを切り出すと,「え,そんなこと聞くん?」と驚いた顔をする子どももいます。

この話題ひとつだけを取り上げれば,取るに足りないことかも知れません。
それでも,「こんなこと」の積み重ねが「それって本当に”普通”かな」と立ち止まって考えられる子どもを育てることにつながるはず…と信じてがんばっていますよ,というお話でした。



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2012年6月11日月曜日

ノートを隠す子ども

勉強している子どものノートを見ようとすると,さっと隠されてしまうことがあります。後から提出すれば見られるにも関わらず,です。
そこには,単に「恥ずかしい」というのとは少し違う子どもの気持ちがあるのでは,と考えています。


以下 平成24年5月12日学級だより「にこにこにくみ」より★


授業中,子どもたちに考えや感想,気づいたことなどをノートに書かせていると,ときどき,書いている端から筆箱や腕を使ってノートを隠そうとする人がいます。
図工などでは「完成してから驚かせたい」という気持ちから,まだ見ないでほしいと思って隠すこともありますが,ノートを隠す場合,それとは少し事情が違うようです。

腕をどかしてノートを見ると「ははあ,なるほど」と思うことがあります。子どもたちがノートを隠すのは,考えや感想などの書いた量が少なかったり,書いた内容に自信がなかったりする場合なんですね。つまり「こんなノートを見られたら,何か言われるんじゃないか」という不安があるから,見られないようにしているのでしょう。 

――「もっと書くことがあるでしょう」「よく考えてごらん」「しっかり思い出して」

子どもたちが「言われたくない」と思うのは,教師のこんな言葉でしょうか。私自身,思わず口をついて出てしまう言葉です。
しかし,考えてみれば,もっと書くことがあれば子どもは書いているはずです。
そもそも「どう書いていいかわからない」とか「何を書いていいかわからない」から筆が止まるわけです。それなのに「もっと書くことがあるでしょう」と言われたところで「え…(それがないから困ってるんだけど…)」と思うばかりですよね。 

はじめから完璧に自分の考えを書ける人はいません。
書いたものを教師や他の大人に添削してもらったり,書きながらアドバイスをもらったりして,考えや感想,気づいたことを上手く書けるようになるのが普通です。しかし,子どもが自分から抵抗なくノートを見せる(広げておく)ようになるためには,それまでの教師の声かけが重要です。先生に見せれば「なるほど,そう書けばいいのか」と思えるようなヒントがもらえるはずだ,という安心感があるからこそ,子どもは隠すことなくノートを広げて「教えて」のサインを送れるのだと思うのです。

子どもが私の前でノートを隠さず広げているかどうか。それは,私が子どもたちにとって安心して「教えて」と言える相手かどうかを示すバロメーターでもあるのです。

余談ですが,家庭訪問中,何人かの保護者の方から「宿題を見ているとつい口を出しちゃうんですよ…」と相談いただきました。
「『もっと丁寧に書いたら…』『もっとゆっくり読んで…』『この計算は前に習ったじゃない…』なんてことばかり言っていると,うちの子もイライラしちゃって…」という言葉を聞いて,ただただ頭が下がる思いでした。
本来であれば宿題は「学校で習ったことを自力で復習する場」のはずです。そこに何らかのつまづきがあるのなら,学校での学習が不十分だったと考えるのが当然です。そんな私の力不足をご家庭で補っていただくのはとてもありがたいです。しかし,それによって宿題を挟んだ親子の関係が互いにとって気持ちのいいものでなくなってしまうのであれば,やっぱりなんだか違うような気がするのです。
そんなときは,「うちの子,○○ができてるか心配で…」「先生,なんとかしてーな」と,遠慮なく担任までお寄せください。


★補足★


「余談」まで読むと,まるで「家で宿題を見てあげるときには,あんまり口やかましく言わないであげてね」とでも言いたいかのようにも読めてしまいますが,そんな意図は全くありません。

私だってもちろん,”丁寧でない”字を書く子どもや,なかなか筆の進まない子どもを目の前にすればつい口を出したくなります。それが自分の子どもならなおさらでしょう。もっとちゃんとやりなさいよ,と。

一方で,”ちゃんとやる”ってどうすりゃいいのさ?とか,書けと言われても何を書けばいいのかさっぱり…という子どもの気持ちもわかります。

だからこそ,少なくともプロの教師の端くれとして,「しっかり…」「ちゃんと…」「よく考えて…」と言うだけの”指導”はしたくない。子どもが出来ないでいることや困っていることを見定めて,それを解決できるような言葉がけができるようになりたい。そういう指導を続けることで,ノートを隠してしまう子どももいつか安心してノートを開いておけるようになるのではないだろうか。

そんな風に考えています。



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2012年6月5日火曜日

「こえをだす」

以前お伝えした学級目標「にこにこにくみ」について,どうしても保護者の方へお伝えしておきたいことがありました。


★以下 平成24年4月27日学級だより「にこにこにくみ」より★ 


先週から,この学級だよりの名前が変わりました。
「にこにこにくみ」は5年2組の学級目標です。多少強引な感じもありますが,子どもたちと話し合って決めた学級目標です。

「あきらめずに」「こつこつと」「なかまといっしょに」の3つは,子どもたちが「こんなクラスにしたい」と自分たちで思い描いた学級の姿を短くまとめて表現したものです。そこに,1つだけ私の願いを付け足しました。それが「こえをだす」です。


声を出すこと。
それはつまり「自分がどう思っているかを伝える」ということです。

一般的には「○○について考えたことを話してみよう」とか「○○についてどんな風に思いますか」という質問に対して,「自分はこう思っている」ということを指します。それはもちろんですが,私は「考えたけどよくわからなかった」「なんとなく,しか言えないけど…」というように「わからない」「途中まで考えた」ということも重要な「発言」だと考えています。

さらに子どもたちには,そういう色々な友だちの「発言」に対して
「自分もそう」
「なるほど」
「よくわからないんだけど…」
「聞こえないよ」
「自分とは違うな」
というように,反応することも重要な「発言」だよ,と言っています。
当然ですが,このような「声」を出そうとすると,まず人の話をきちんと聞いていなければできません。

大人でも,大勢の前で「わからないんだけど…」と声を出すのは勇気がいります。場の空気を読んで「わかったふり」をしてしまうこともあるでしょう。しかし学校の教室は,自分が学び,知ることに貪欲な空間であってほしいと思うのです。互いに信頼し合い「わからないよ,誰か教えて」「それってどういう意味?」と声に出す姿を,馬鹿にしたり笑ったりせずに尊重し合える“学び仲間”でいてほしい,そんな風に考えています。

ご家庭でもぜひ「『わからない』って言えてる?」「『もう1度言って』って声を出してる?」と聞いてみてくださいね。


★補足★


学校と言えば「手を挙げて発言する」とイメージする人が多いように,学校ではとりわけ「発言すること」が重要視されてきたように思います。

「○○のわかる人」
「ハイ! ハイハイハイ!」

というやりとりは,微笑ましい教室の原風景としてメディアなどにもたびたび登場します。
しかし,「教室では手を挙げて発言するものだ」というイメージと同じぐらい(あるいはそれ以上に)「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という”常識”が一般に浸透しています。
実はこのこと自体が,「たくさん発言する人」と「なかなか発言できない人」をつくりあげてしまう要因ではないかと思うのです。

発言とは「正しい答えを正しく話すこと」ではありません。「言葉を出すこと」です。
教師の質問に対して,「きっと先生はこういう答えを求めているんだな」と察した言葉だけが発言ではないのです。「先生,何を聞かれているかさっぱりわかりません」とか「たぶんこういうことなんだけどうまく言えません」というのも立派な発言です。
むしろ,30人以上も子どもがいれば,教師の質問に対してそういう発言がある方がよっぽど自然です。「何を聞かれているかわからない」と言った子どもは,質問をもう一度違う言葉で聞くことができるでしょう。「たぶんこういうことだろう…」と口に出した子どもは,発言が周囲に賛同されることで自信を得る場合もあるでしょう。

そんな機会を子どもたちから奪い,「わからないから黙っておこう」「自信がないから誰かに任せておこう」と思わせてしまっているのが,「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という ”常識” です。

そんな”常識”ヘンじゃないか。
誰だって自分が「わかった!」と言うために必要な発言をするべきじゃないか。

そんな思いで書きました。


「わかった人が発言する」「よく発言する人は賢い」という ”常識” についてはもう少し書きたいことがあるのですが,それはまた別の機会に。



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2012年5月22日火曜日

「先生○○していいですか」

5年生の担任になってまず驚いたのは,そんな質問があまりにも多いことでした。


★以下 平成24年4月20日学級だより「にこにこにくみ」より★


子どもたちから,毎日聞かれます。

「先生,トイレ行っていいですか」

「先生,手を洗ってきていいですか」

「先生,もう始めていいですか」

「先生,パンを残していいですか」

私はできるだけ「どう思う?」と答えるようにしています。
質問した子どもは一瞬「へ?」という顔になって,しばらく考えたのちに

「今は…だめだと思います」

とか

「いいと思います」

というように答えます。そしてほとんどの場合,その判断は間違っていません。
もともと「先生,○○していいですか」という質問自体,いいか悪いかを尋ねているのではなく「本当はダメかなーと思うんだけど,トイレ行きたい…」という主張(あるいは懇願)を含んだものなんですね。
授業中にトイレに行ってもいいかと言えば答えはノーです。でも,どうしても我慢できない。授業を抜けることになってしまうけど,ちょっとトイレに行きたいです――。そんなささやかな望みに「先生のお墨付き」をもらうための手続きが「先生,トイレ行っていいですか」なんだと思います。

「○○していいですか?」「いいですよ」というお墨付きがもらえずに,「どう思う?」と聞かれた子どもは突然自分で判断することを求められます。

「先生,トイレ行っていいですか」

「どう思う?」

「…今はダメだと思う」

「授業中だからね,トイレに行っていい時間じゃないですね」

というように。
その判断は間違っていません。大正解です。しかしトイレは生理現象ですから,我慢ができないこともあるでしょう。そういうときは「(我慢できないので)トイレに行ってきます」と言うんだよ,と指導します。


ここまで読んでいただいて,「何をまどろっこしい…」「アカンもんはアカンと言わないと」と思った方もおられるのではないでしょうか。しかし私は,2つの意味でこの“面倒なやりとり”が大切だと思っています。
1つめは,ものごとを自分で判断できるようになるということです。「今はトイレに行ったらダメだと思う」「今は手を洗ってきてもいいと思う」という判断を自分で下し,それが教師に「うん,先生もそう思うよ」と認められることで,子どもは自らの判断力を磨き,自信を深めていくのではないでしょうか。
2つめは,自分の責任で行動するということです。自分の判断をもとに行動した以上「先生がいいって言ったから」「友だちがやれって言ったから」という言い訳ができなくなります。誰かの価値基準にただ従うのではなく,自分の判断で行動するからこそ,もしそれが失敗に終わったとしても他人のせいにはできないし,その失敗を見つめることが自分の成長につながると思うのです。


「○○していい?」「どう思う?」 ちょっと回りくどいですがご家庭でも取り組んでみませんか。


「5年2組学級だより(仮)」改め,「にこにこにくみ」のスタートから長々と書いてしまいました。おたよりに関することはもちろん,それ以外でもご意見・ご感想・ご質問をお待ちしています。どしどしお寄せください。


★補足★


これを書いてから1か月が経ちました。「先生○○していいですか」はずいぶん少なくなりましたが,それでもときどき

「先生,トイレ行っていいですか」

「自分ではどう思う?」

「え? あ…ちょっと我慢できないので行ってきます」

というやりとりがあります。子どもたちが自分の判断に自信と責任をもつようになるにはまだまだ時間がかかりそうですが,焦らず根気強く続けていきたいと思います。



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2012年5月15日火曜日

地金の表れるころ

G.W.も終わり,新学期気分も抜けてきた頃です。4月から張りつめていた緊張の糸が緩み始める子どもや,高かったモチベーションが慣れとともに下がり始める子どももいるでしょう。担任としては,それが「ダメだ!」というのではなく,「まあ,そういうもんだろうな」と構えておこうと思っています。4月の第2週には,そんなことを考えておたよりを書きました。


★以下 平成24年4月13日学級だより「5年2組学級だより(仮)」より★



5年2組がスタートして一週間が経ちました。

誰だってはじめは緊張するもの。

「田中先生ってどんな人なんやろ」

「怒ると怖いかな」

「どんな話し方をするのかな」

「宿題は多いかな」

などなど,担任に対する不安もひしひしと伝わってきました。
子どもたちにとって不安の材料はそれだけではありません。クラス替えで学級の顔ぶれも変わりました。新しい学年になったことで,周囲の期待もこれまでとは違うでしょう。それらすべてが,子どもたちにとっての成長のチャンスであると同時に,大きな不安でもあります。

小学校では高学年として何かと任されることの多い5年生ですが,考えてみればこの世に生まれてまだ11年。大きな環境変化に慣れないのも当然です。

そんなわけで,この一週間子どもたちはかなり「ハイ」な状態でした。「5年生になったんだから」という自覚と緊張とで,今まで以上にがんばっちゃった人も多かったのではないでしょうか。しかし「ハイ」な状態は決して長続きはしません。緊張が解け,5年生としての生活に慣れてくると,だんだん地金が表れてきます。

「これくらい力を抜いても先生は許してくれるだろう」

「そこそこがんばればいいだろう」

「誰かがやってくれるだろう」

 「ハイ」な一週間では隠れていた,子どもたちの地の部分が表に現れてからが,本当のスタートだと考えています。「地の部分」がダメだというのではありません。誰だって,人の見ていないところではちょっとサボりたくなってしまうし,面倒なことを人に任せてしまいたいと思うことがあります(モチロンワタシモアリマス…)。そんな自分の弱いところを恥ずかしがらずに認めたうえで,「でもここはがんばりどころ!」「少なくともこれだけはやっておこう!」と切り替えられる人であってほしいと思います。


★補足★


補足というほどではありませんが…。
G.W.明けのいま,子どもたちはまさに地金むき出しの状態です。4月当初の緊張した面持ちが懐かしく感じられますが,そんなことを言っても仕方ありません。歯を食いしばって指導にあたる毎日です。


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2012年4月24日火曜日

「もう5年生なんだから…」

新年度がスタートしてはや2週間が経ちました。昨年度は3年生でしたが,今年度は5年生の担任です。実は初めての高学年でして,不安もありますがワクワクしています。

今回は,4月6日始業式の日に子どもたちに配った学級だより第1号を掲載します。この日のおたよりには学級名簿を一緒に載せましたので,少ないスペースで書く必要がありました。放っておくとどんどん文章が長くなる私にとって,最初の試練です。


★以下 平成24年4月6日学級だより「5年2組学級だより(仮)」より★



進級おめでとうございます。 

5年2組の担任となりました,田中先生と申します。

「そんなことより(仮)とはなんだ(仮)とは!」とお叱りを受けそうですね。2組の子どもたちに出会い,ひとりひとりの顔をじっくりと見て,実際に話をしてみてから決めようと考えています。というわけで,少しの間だけ(仮)の題名をお許しください。

5年生というと「高学年の仲間入り」とか「6年生のリハーサル」というようなイメージがあるからでしょうか。子どもたちにも,つい「もう5年生なんだから…」と言ってしまいがちです。しかし本当は「5年生だから○○」という決まった姿が先にあるのではなく,子どもたちひとりひとりが「なりたい自分」を思い描き,努力を続けたその先にそれぞれの5年生の姿があるのだと思います。私たち大人のできることは,そんな「なりたい自分」を目指す子どもたちが安心して前に進めるように,陰日向に支えることではないでしょうか。
保護者の皆様にもたくさんのご協力をお願いすることがあるかと思います。一年間,どうぞよろしくお願いします。


★補足★


4月,学級開きの様々な場面で,教師はつい「5年生になったんだから ○○ 」とか「5年生なんだし □□」という”魔法の言葉”を口にしながら子どもたちとの関係を築いていきがちです。「さすが5年生」なんていうのもその1つかも知れません。子どもたちは健気にも「そういうものなのか」と思い,4月パワーで必死にその○○や□□を目指そうとします。
ところが実際には,そう簡単に(魔法にかかったように)何かができるようになる子どもばかりではありません。カレンダーが3月から4月になっただけで皆が急に成長するなんて,そんな妙な話はないでしょう。
もちろん4月という心機一転のチャンスに「今年こそは!」と意気込む子どもは多いでしょうし,そういう気分の高まりが子どもの力を伸ばすという側面もあると思います。しかし,だからと言って,教師が「もう5年生なんだから…」と言いながら子どもを伸ばそうとするのは,なんだかズルいような気がするんですね。うまく言えないのですが…。

そんな思いもあって,「学級だより(仮)」なのだと自己分析しています。このあたりは次の機会に。



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2012年4月2日月曜日

年度末のご挨拶 ~子ども編~

4月になり,新年度の準備も始まっていますが,前回の記事の最後に書いた「ちょっと別のこと」をまだ載せられていなかったので,なんとなく年度末の気分でした。平成23年度最後のおたよりのタイトルは「3年○組を卒業するみんなへ」です。


★以下 平成24年3月23日学級だより「すきやき」より★


3年○組がスタートしてもうすぐ1年がたちます。着任式(ちゃくにんしき)の日,運動場で田中先生を見て 「どんな先生なんだろう」「こわい先生かな」とドキドキしていたみなさんの顔を,今でも思い出します。みんなにとって田中先生はどんな先生でしたか。みんなにとって3年○組はどんなクラスでしたか。

4年生になれた人も,そうでない人(?)も,この仲間(なかま)や田中先生と一緒(いっしょ)にすごすのは今日でおしまいですね。最後(さいご)の日ですので,田中先生からみんなにお別(わか)れの言葉を書こうと思います。お別れの言葉といっても,田中先生がずっと言い続(つづ)けてきたことなので,「またか」と思う人がいるかもしれません。でも,4年生になっても5年生になっても,6年生になっても絶対(ぜったい)にわすれないでほしいことです。だから,しつこいけれど書いちゃいます。


自分で考える

友だちの言うことを聞くのは大切です。でも,友だちがいつでも正しいとはかぎりません。本当に正しいかどうか,それを考えるのは自分なのです。
考えるヒントは「どんな自分になりたいか」です。
「○○さんもやってた」とか「□□さんがやれって言った」という人は自分で考えていません。○○さんが何をしようが,□□さんが何を言おうが「どんな自分になりたいか」を考えてください。 


先生がいないときに,本当の自分が出てくる

先生に言われてから行動する人は,先生がいなくなると何もできません。
先生がこわいからがんばっている人は,先生がいなくなるとがんばれません。
本当の自分は,先生がいないときにわかります。 


伝わるまで伝える あきらめずに伝える

「ごめんなさい」「ありがとう」「○○されていやだった」「それ,おかしいよ」…。どんな言葉も相手に伝わらなければ意味がありません。一度でうまく伝わらなければ,言い方をかえて何度でも伝えること。「どうせ言ってもむだだから…」とあきらめないこと。


うそをつかない ごまかさない

失敗してもいいのです。まちがってもいいのです。失敗もまちがいも,成長するためのチャンスだからです。「どうして失敗したのだろう」と考えるときに人は成長します。失敗やまちがいをごまかす人は成長しません。


「わからない」は「わかった」への近道

「わかった」からいちばん遠いのは「わかったつもり」です。はずかしがらずに「わからない」「教えて」と口に出して言える人は,かならずわかるようになりますよ。


みんながなかよしじゃなくてもいい みんなが気持ちよくなれるように

人はみんなちがうのだから,考えや意見が合わないのがふつうです。苦手な人がいたっていいのです。ただし,好きな人とも,苦手な人とも,おたがいに気持ちよくすごせるようにしてください。自分だけでなく,相手も気持ちよくすごせるかどうか,です。


やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。ちがう学年になっても,ろうかですれちがったときには「がんばって伝えてるで」とか「『わからない』ってちゃんと言えてるで」と教えてくださいね。


3年4組学級通信「すきやき」はこれでおしまいです。
みんながいたから先生もがんばれました。先生ががんばればがんばるほど,みんなは大きく成長して見せてくれましたね。こんなに大変で,こんなにおもしろいクラスは初めてです。


みんなに会えてよかった。本当にありがとう!




★補足★


この1年間,彼らにいったいどれだけのことを伝えられたのでしょうか。
学習へ取り組む姿勢や友だちとのことなど,私が伝えたかったことの10分の1ほども子どもたちには伝わっていたのでしょうか。
年度末を迎えるにあたって,そんなことばかり考えていました。

とはいえせっかくのおたよりを「お説教」で終わるのはちょっと…と思うので,何度か推敲してこんな形になったわけですが……やっぱり「お説教」ですかね(笑)。
最後の方に書いた
やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。
というのはそんな自分への照れなんだと思います。

子どもたちに向けてメッセージを書いたのは4月当初の「すきやき」以来です。そのこともあって,最後の「すきやき」を配ると子どもたちは食い入るように読んでくれました。慌ただしい年度末のことなので,子どもたちに感想を聞くことができなかったのが残念でした。

今になって少し冷静に振り返ってみると,ひとりの教師が子どもたちにあれもこれも教えられる,と思うことのおこがましさのようなものも感じます。
先生は全部伝えたからあとは君たち次第だよという,ある種の無責任さも感じます。

それでも書かずにいられなかったのは,この1年間の自分の指導への不安の裏返しなのでしょうね。あとは子どもを信じて,自分の指導を信じるのみです。



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2012年3月15日木曜日

続・先生なんていなくても

学級だよりで「来週に続く」なんて,そんなんアリか?とも思ったのですが…。お付き合いください。


★以下 平成24年2月17日学級だより「すきやき」より★ 


「4年生になっても田中先生がいいなあ」


この時期になると,こんな嬉しいことを言ってくれる子どもがいます。そんなときは私もつい頬が緩んで「そうやねえ。同じだといいねえ」と答えています。

この1年間(…まだ終わっていませんが),子どもたちは大きく成長しました。授業中に手を挙げて発表できるようになった人,友だちとのトラブルを自分で解決できるようになった人,「わからない」と言えるようになった人,宿題を忘れなくなった人,漢字をとても丁寧に書けるようになった人。
そんな成長を「田中先生のおかげで…」と言ってもらえるのであれば,教師としてこんなに嬉しいことはありません。

そんなことを考えているとき,「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」という先週の言葉が私の耳に重く響きます。それは,子どもたちの成長が本当に子どもたちのものになっているか,ということです。


たとえば「田中先生はシールをくれるから」という理由だけで漢字を丁寧に書き続けてきた人は,シールをもらえなくなったらどういう字を書くでしょうか。「互いが納得するまで話し合わないと田中先生に叱られるから」という理由だけで友だちとのトラブルを解決してきた人は,叱られなくなったら話し合うことをやめてしまうかもしれません。
もちろん,授業中に手を挙げて発表できるようになったきっかけが「田中先生が挙げろというから」でも構いません。宿題を忘れなくなったきっかけが「忘れたら田中先生に怒られるから」でも構いません。しかし,いつまでもそのままではいけないなと思うのです。

「田中先生に怒られるから〇〇する(しない)」の次なるステップは「自分はその方がいいと思うから〇〇する(しない)」です。教育用語では前者を「外発的動機」,後者を「内発的動機」と言います。「外からの力」を動機として行動するのか,「内からの力」を動機として行動するのかの違いです。

難しいのは,どちらの場合も見た目の行動は同じであるということです。
「先生が怖いから」落ち着いて勉強しているのと,「自分がそうしたいから」落ち着いて勉強しているのは,見た目にはほとんど変わりません。その差がはっきりするのは,先生がいなくなったときです(ようやく先週の話につながりました)。
先週書いた自習の日は「先生がいなくなる日」に過ぎません。しかし学年末は「この先ずっと先生がいなくなる」のです。4月になれば,それまでの成長が本当に子どもたちのものになっているかが試され,はっきりと目に見える結果となるのです。

誰の前ででも,どんな仲間の中ででも,自分の力を精一杯伸ばし成長しようとする。そんな人になってほしいと考えて今日まで指導してきました。残り一か月,少しでも多くのことを「内発的動機」でできるようにしていきたいと思います。


先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで――つくづく重い言葉です。





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2012年3月12日月曜日

先生なんていなくても

何とも挑発的なタイトルですね。そのままおたよりのタイトルでもあります。
今回は,これまでの自分の指導を振り返りながら,こんなおたよりを書きました。


★以下 平成24年2月10日学級だより「すきやき」より★


子どもたちに聞いていただければわかりますが,私はときどき自習にします。
授業研究のために他のクラスや他の学校を見に行く場合がほとんどですが,そのたびに子どもたちに話していることがあります。それは「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

4月当初に「前にならえ!…でいいの?」というおたよりを書きました。
誰かに「前にならえ!」と号令をかけてもらうからまっすぐ並ぶのではなく,「今はまっすぐ並んだ方が格好いいぞ」という場面を「自分で判断して」並べる人になってほしい,という話です。
「先生がいないときこそ,本当の力が試されるんやで」というのはその上級編にあたります。

「前にならえ」のような号令でなくとも,教室にいれば先生が指示することはたくさんあります。
「はい,授業始めるよ」といった時間に関わることや「○○さんが話しているよ(注目してね)」といったコミュニケーションに関わることまで,子どもたちは「先生の言葉」を浴びながら生活し,学んでいるのです。そんな環境においては,自分で「授業が始まる時間だから用意しておこう」とか「○○さんの方を見て話を聞こう」というように考えていなくても,「先生の言葉」によって「あ,そうか」と気がつくことができます。

ところが,普段からその状態(先生の言葉を聞いて行動すること)に慣れている人は,いざ先生がいなくなってみると,授業が始まる時間や,○○さんが話していることに気がつきません。指摘されないとわからないのです。また,先生が教室にいることで「あ,先生が怖い顔してるな」とか「そろそろやめておかないと怒られそうだ」というように,先生の顔色をうかがうこともできます。
いずれにしても「先生がそう言ったから」とか「先生に怒られるから」というような理由で,自分の行動を考えるわけです。

「先生に怒られるから」がんばる子どもと「その方がいいと自分で思うから」がんばる子ども。
困ったことに見た目ではほとんど区別がつきません。どちらもがんばっています。ところがいざ先生がいなくなってみると,その差ははっきりと表れます。「先生に怒られるから」がんばっていた子は,怒る人がいなくなればがんばる理由もなくなります。逆に「その方がいいと自分で思うから」がんばっていた子は,怒る人がいようがいまいが変わりません。これが「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

実はこの言葉,年度末になるといつも私の耳に重く響くのですが,その話は次の機会にお預けですね。ではまた来週。


★補足★


「ではまた来週」で終わるおたよりなんて,我ながら前代未聞です。短くまとめられるのが一番なのですが,私の稚拙な文章力では短くなっただけ内容が削がれてしまう気がして,相変わらずダラダラと伸びてしまいます。



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2012年3月2日金曜日

「習ってない漢字を使うな」という指導

こんな記事が目に入ったのでつい。

NEWSポストセブン|「習ってない漢字使うな」指導で自分の名前を書けない子供も
<最近、自分の名前であっても学校で習ってない漢字を使ってはならないと先生が指導するという。おかしい。だって名前の漢字はすべて学校で習うとは限らない。ならばいつまでも自分の名前は漢字で書けない。名前は親が指導し、学校では友達の名前を読めるように指導すべきと思う>
立命館小学校副校長で大阪府教育委員も務める陰山英男さんがツイッターに書き込んだつぶやきが、大きな議論に発展している。あまりの反響の大きさに、陰山さん自身驚いているようだ。
「ツイッターでは、大阪府の教育基本条例の問題なども取り上げているのですが、漢字と名前の問題の反響はそれよりはるかに大きいものでした。あまりにも多数の声が次々に届くので、何かの間違いではないかと思ったくらいです」
反響の理由を、陰山さんはこう分析した。
「保護者の声で最も多かったのは、書ける漢字を書かせないという“ブレーキをかけること”への反発でした。この問題に保護者がここまで熱くなっている背景には、学校への不信があります。これまで教師がよかれと思って指導してきたことが、保護者目線で見るとズレていることがあるんです」
「漢字と名前」問題が浮き彫りにした、いまの学校教育の問題とは──
例えば「陰山英男」さんが新入生として小学校に入学したとしよう。最初は漢字を習っていないので、すべて平仮名で「かげやまひでお」。1年生のうちに「山」と「男」を習うので「かげ山ひで男」と書くよう指導される。4年生になると「英」の字を習い「かげ山英男」と書くが、「陰」の字は小学校卒業まで書かないことになる。これが名前の「交ぜ書き」だ。
ツイッターで指摘しているとおり、子供が漢字で自分の名前を書けるにもかかわらず、「平仮名に直せ」と指導されるケースが少なくないことがわかった。つまり、子供は「陰山英男」と書けるにもかかわらず、「かげ山」と書きなさいと教えられていたのだ。東京都在住のAさん(44才・主婦)がいう。
「子供には“小学校に上がる前に漢字で名前が書けるように”と漢字を覚えさせ、子供も名前を漢字で書けるようになったことで自信がついたのか、学校に行くのを楽しみにしていました。ところがある日、『習ってない漢字は平仮名で書かなきゃダメなんだって』とションボリして帰ってきたんです。思わず“ダメってどういうこと? 自分の名前なのになんで漢字で書いちゃいけないの?”と声を荒らげてしまいました」
さらに、学校や教師によって漢字がOKだったりNGだったりすることで、ますます混乱してしまう子供や保護者もいる。
「うちの名字は『清水』で、息子は全部漢字で書けます。でも2年生で習っているのは『水』の字だけなので、それに従うと『し水』と書かなければいけないことになる。担任の先生は息子が名前を漢字で書いても『平仮名に直しなさい』とはいわないそうですが、書写の先生には『平仮名に直しなさい』といわれてかなり戸惑っていました。
最近では先生の顔色を見ながら『清水』『し水』を書き分けているようですが、どうして子供がそんな気を使わなくちゃいけないのか。せめて学校内で統一してほしい」(39才・主婦・東京都)
※女性セブン2012年3月15日号
http://bit.ly/zF6amG

「そういう先生もいる,ぐらいが本当なんだろうけどなあ」
 というのが率直な感想なんですが,実際のところはどうなのかわかりません。
私の周りの先生たちの多くが,たまたま記事には当てはまらないだけなのかもしれません。

だからと言って「これだからマスコミは…」と,こんなところでマスコミの針小棒大を嘆いてみても不毛なだけです。
どこに問題があるのかな,と考えてみました。


子どもたちを担任してすぐの頃,子どもたちがこんなことを聞いてきました。

「名前に,習ってない漢字も書いていいですか」

ちょっと意地悪ですが,逆に聞き返しました。

「どう思う?」

子どもたちは「あかんやろ…」とか「ええんちゃう?」などと言っていたのですが,中にはこんな風に言う子もいました。

「○○先生(去年の担任)は書いたらあかんって言ってはったで」

「いや,△△先生(去年の担任)は書いてもいいって言ってた」

まさに,記事にあるような「混乱」です。
東京都の主婦の言葉にあるように,「せめて学校内で統一してほしい」と言いたくなるのもわかりますよ。

子どもたちはそれまで「〇〇先生の言ったことだから」「△△先生の言ったことだから」と必死に守ってきたのでしょう。先生の言葉が子どもに与える影響の大きさを感じます。
ところが残念なことに,「先生がそう言ったから」という以上の理由はないんですね。あるいは理由なんかなくても「先生が言うことなんだから絶対に守らないと」と,忠実に従ってきたのかもしれません。あるいは心の中では違うことを思っていても「先生の言うことを聞かないと怒られるから」と,しぶしぶ従ってきたのかもしれません。

実際には「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」という指導をする場合にも,その理由があるはずです。
たとえば「習っていない漢字で名前を書くと,他の人が読めなくて困るから」というもの。たしかに,子どもどうしでノートを配ったり互いの作品を鑑賞したりするときには,名前をスラスラと読めた方が便利です。
あるいは「習っていない漢字を,間違えたまま覚えてしまうことがあるから」というもの。人間の思い込みというのはなかなか強いもので,一度覚えた漢字の形や画数などはなかなかすぐに直せるものではありません。就学前に家の人に教わっていても,何度も書いているうちにいつのまにか勘違いして,へんとつくりが逆になっていたり,大きさのバランスがヘンだったり,ということもありますね。

子どもに,これらの理由を完全に理解させるのは難しいと思います。
しかし,教師が「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」と言うときに,その理由を説明するのとしないのとでは全然違います。「先生の言うことだから」と黙って従う子どもと,「ちょっと難しいけど,ちゃんと訳があるのね」と(それなりに)納得して従う子ども。家の人に「どうして名前を漢字で書いたらだめなの?」と尋ねられたときにも,きっと反応が違うはずです。


話が長くなりました。

「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」という指導が悪いわけではありません。
ただ,子どもが「使いたい」と思うものを「使ってはいけない」というのであれば,それなりの「指導上の意図」や「理由」をきちんと伝えるべきです。
そういう手間をかけずに,「先生(大人)の言うことだから」というような「ねじ伏せ型」の指導や,「みんながそうしているから」というような「無思考型」の指導を続けていると,こんな記事になってしまうのだろうな,と思いました。


私は「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」とは言いません。
友だちが困らないようにフリガナを書けばいいし,字を間違えて覚えていたら教えればいい。そう考えるからです。






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2012年2月27日月曜日

いじめが始まるとき その3

「いたずらのつもりがついやりすぎて…」
「遊びがエスカレートして…」

その結果,「遊び」や「いたずら」じゃ済まされないような状況になることがあります。
ひとつずつの行為を「これは〇,これは×」というように仕分けすることはできません。かといって「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言い聞かせたところで,子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

むしろ,大人が「いたずらが過ぎた」「遊びがエスカレートした」と判断し,「いたずらにも程がある」「遊び方を考えなさい」と指導することで,子どもに「いたずら(遊び)の延長」という免罪符を与えてしまっているのではないか。

前回の記事ではそんなことを書きました。


私自身,これまで幾度となく同じようなやりとりをしてきました。そして,遊びをエスカレートさせてしまった子どもに「○○してごめんね」と謝らせることでその場を取り繕ってきたのです。しかし,そのような指導について考えさせられる出来事がありました。



仲の良い3人組のひとり(C)が,泣いていました。
他の2人(A,B)が遊びをエスカレートさせてしまったのが原因です。もちろんそれはAとBにとっても「自分がされたら嫌なこと」。それでも2人には,Cの「やめて」という訴えが届きませんでした。

Cが私に訴えたことで,AもBもようやく気がついたのでしょう。すぐに「ごめんね」と謝りました。

「ごめんね,はもちろん大切なんだけど…」

2人とも反省している様子なので,少し聞いてみることにしました。

「あなたたちは自分がされて嫌なことを友だちにするの?」

「…しません」

「でも,今回はしちゃったわけだ。どうしてなのか考えてごらん」

我ながら難しい問いです。
しかし,2人のうちの1人が,少し考えてからこう言いました。

「楽しかったから」

その言葉を聞いた瞬間,むくむくと怒りがこみ上げてきました。
「友だちの嫌がることをしておいて,楽しいとは何事か」
そんな言葉が喉元まで出かかったとき,「待てよ」と思ったのです。

その「楽しい」こそが,常識を狂わせているのではないか。
その「楽しい」こそが,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」という当たり前のことを忘れさせてしまっているのではないか。

だとすると,子どもたちが学ぶべきことは「○○してはいけません」ではありません。

「自分にとって『楽しい』は,他の人にとっても『楽しい』だろうかと考える」

「自分が『楽しい』と思っているときは,他の人の気持ちに気がつきにくい」

そういうことを学ぶべきではないでしょうか。



そんな風に考えて書いたのが,前々回の記事「いじめが始まるとき その1」でした。



★★



2週にわたって書いてきた「いじめが始まるとき その1」の補足は,これで終わりです。

もちろん,これ以外にもいじめが始まる瞬間はたくさんあります。もっとドロドロした悪意ある「いじめの始まるとき」に比べれば,「遊びの延長」なんて可愛いものかもしれません。

しかし。

「遊び」「楽しい」「冗談」「ふざけ」
そんな言葉の陰で誰かが心を痛めているとしたら。

その「誰か」が周囲の雰囲気に気を遣う(空気を読む)あまり,心の痛みを口にできないとしたら。

その結果,本人の意思とは無関係に「ヤラレ役」「いじられ役」などという役割を背負わされるとしたら。

傍目にはごく自然な形で,静かに,いじめが始まっているのではないでしょうか。






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2012年2月21日火曜日

いじめが始まるとき その2

「最近の子どもは加減を知らない」

そんな言葉を耳にすることがあります。
昔の子どもだってよくケンカもしたし,悪いこともした。だけど「これはやったらあかん」ということだけはわかっていた。越えてはいけない線を知っていた。年上も年下もみんなで一緒に遊んでいたから,必然的に小さい子や弱い子をかばっていた。云々。

「最近の子ども」に限った話なのかは知りませんが,「子どもが加減を知らない」ということは実感します。しかし教師としては「子どもが加減を知らない」と嘆いていても仕方ありません。前回の記事を書くときにはそんなことを考えていました。


前回の記事の内容を,もう少し具体的にしてみます。

たとえばAとBでプロレス遊び(古い?)なんかをしているとき。
技をかけられたBが「痛い痛い!」と叫びます。プロレス「遊び」ですから,技をかけているAはそれでも遊んでいるつもり。「痛い痛い!」の声も遊びのうち。
そのうちBが泣いたり,後になって先生に訴えたりして,Aはこんな風に聞かれます。

「なんでそんなことしたの」

Aにとってそれは遊びでした。Bを傷めつけてやろうとか,痛い目に遭わせてやろうとか,そういう気持ちでいるわけではありません。Bにとっても"はじめは"遊びだったのかもしれません。
だからAはこう言います。

「遊んでただけ」


こんなとき,教師はどう指導すればいいのでしょう。

「○○の技まではいいけど,△△の技はやめておこう」とか「□□の技をするなら力を抜こう」というように,「加減の仕方」をAに教えればそれでいいのでしょうか。
もちろん違います。そもそもそんなことは不可能です。
プロレス技だけでなく,「していいこと」「してはいけないこと」をひとつずつ区別するのには限界があります。たとえば「肩をたたく」。

「おはよう!」と肩をたたく。
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく。
「肩こってますねえ」と肩をたたく。
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく。

それぞれにたたく手の形や強さは違うでしょうが,それらをひとつずつ区別して「これはOK」「これはダメ」なんて言うのは不可能です。


実際にはもう少し現実的な指導をすることになります。
それが「自分がされて嫌なことは,相手にもしない」というものです。

「おはよう!」と肩をたたかれる → 嫌じゃない
「やだーやめてよー」と照れながら肩をたたく → 嫌じゃない
「肩こってますねえ」と肩をたたく → 嫌じゃない
「お前なんか嫌いだ」と肩をたたく → 嫌だ

確かにこの決まりに従えば,ひとつずつの行為に対して「していいこと」「してはいけないこと」と区別する必要なく,相手が嫌がるだろうことだけを抑えられます。
ところが子どもはそんなこと百も承知です。「自分がされて嫌なことは,相手にもしてはいけません」と言われて「なるほど!そうか!」と思えるほど無知な小学生はまずいません。子どもにとっては「そんなこと,わかってる」のです。

教「なんでそんなことしたんだ」
A「遊んでいただけです」
教「遊んでいた,と言うが,もしAが同じことをされたらどうだ」
A「嫌な気持ちになります」
教「でも,Aは自分がされて嫌なことを,友だちにしてるじゃないか」
A「……」
教「これからどうしたらいいか言いなさい」
A「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」

このやりとりで,Aはいったい何を学ぶのでしょう。
私が教師をしていていちばん怖いと思うのはここです。
こんなやりとりが何度か続けば,Aは「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」と言っておけば先生は許してくれるんだな,と学ぶかもしれません。
あるいは,「自分がされて嫌なことは,友だちにもしません」とわかってはいたけれど,ついやってしまったと言えば許されるんだな,と学ぶかもしれません。

何より怖いのは,本当に悪意をもって誰かに嫌がらせをしたとしても「遊んでいただけです」と言えばこういう展開になって許されるだろう,と学ぶことです。


冒頭に書いたプロレス遊びの件は,それだけを見て「いじめ」とは言えないのかもしれません。実際に,多くの同じような事例が「遊びの延長でついやりすぎて…」とか「遊びがエスカレートして…」というような言い方で解決していきます。

しかし,そこに私たち教師はどれほどの指導をしているでしょうか。

「遊び方を考えなさい」
「ほどほどに遊ぶんだぞ」

そんな指導で子どもたちに伝わるものは,いったい何なのか。
悪質ないじめが起こったときの「言い訳」を与えてしまってはいないか。

そんなことを考えながら書きました。


…すみません,もう少し続きそうです。





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2012年2月13日月曜日

いじめが始まるとき その1

いじめはいけない。いじめはダメなことだ。
そんなこと,誰だってわかっています。小学生に「いじめってどう思う?」と聞けば,「だめ!」とか「かっこ悪い!」というように,100%否定するでしょう。
それでもいじめはなくなりません。今回は「いじめはいけない」とわかっている子どもたちの中に,どうやっていじめが生まれるのか,そんなことを考えてみました。


★以下 平成24年2月3日学級だより「すきやき」より★


休み時間,子どもたちは色々に関わって遊んでいます。互いに手を抜いて押し合ったり,誰かを持ち上げて振り回したりというような「じゃれあい」や「悪ふざけ」もそのひとつです。

大きな怪我につながらない範囲で互いに楽しんでいる分には,特に問題になることはありません。どちらかが「やめてー」と言い出すか,誰かに「やめときや」と言われる頃には,そんな「じゃれあい」も終わりになります。ところがこの「やめて」の見極めが難しい。さっきまで皆が「楽しい」と思っていたわけですから,「やめて」が本気なのか,楽しさ半分に言っているのか,そこがわからないのです。

「何度も『やめて』って言ってるのに,どうしてやめてくれないの」

「え? 楽しそうにしてたやん。ホンマにやめてほしかったの?」

トラブルになってから改めて聞いてみると,こんなやりとりになることはよくあります。


やめてと言っている人に何かをし続けるのは間違っている。常識的にはそうです。しかし,実際には「やめて」の声が届かないことの方が多いのではないでしょうか。
それは,決して特別なことではありません。私たちは,テレビに出てくるお笑い芸人がひどい目に遭っている姿を見て「楽しい」と笑います。身近なところでは「いじられ役」という言葉があるように,仲間うちでも「他人にからかわれる人」の存在を暗に認めています。「○○はいじられ役だから」という言い方で,まるでその人が自ら好んで「いじられて(=からかわれて)」いるかのような言い方さえします。そんなとき,お笑い芸人やいじられ役の口にする「やめてくださいよ~」は,訴えなどではなく,見る者の楽しさを増すものでしかないのです。

お笑い芸人はそれが仕事ですし,そうでなくとも「いじられ役」と呼ばれることを嬉しいと思う人もいるかも知れません。しかし,当の本人が「楽しい」「嬉しい」とは思えないのであれば,それは単なるいじめです。いくら「楽しそうにしてたやん」と思っても,相手が同じように楽しんでいないのであれば,ただの嫌がらせです。

子どもたちは「自分がされて嫌なことは,人にもしてはいけないよ」と言えば素直にハイと言うでしょう。しかし本当に怖いのは「自分がされて嫌なことは,人にもしない」という当たり前のルールが,「楽しい」という感情の前では忘れられてしまうことがある,ということではないでしょうか。

★★

子どもたちに「楽しいって,怖いね」と話しました。するとある人がこんなことを話してくれました。

「私は友だちが『やめてー』と言いながら逃げているところを見て,思わず笑ってしまいました。今考えると,私も同じようにいじめてしまっているのかもしれないと思います。」

そのときの様子を思い出し,涙ながらに話す姿を見て「そういうことか」と思った人がいたようです。「同じように感じた人はいますか」と尋ねると,ちらほらと手が挙がりました。

「自分は外遊びのときに,友だちの失敗するところを見てみんなで笑ってしまっていたけど,その人がどう思っていたかはわからない。もしかしたら『嫌だなあ』と思っていたかもしれない。」

そうやって,自分のことに置き換えて考えている人もいました。

じゃれあいの遊びも本人たちが納得してこそ,です。「楽しい」の先にあるものが,ただの嫌がらせになっていないか,楽しいなあと思っているときこそ要注意なんやね,と話しました。




★補足★




記事のタイトルは【「楽しい」の先にあるもの】でした。
補足を書こうと思ったのですが,ちょっと長くなりそうなので続きます。




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2012年1月23日月曜日

新年恒例の「今年の目標」に一言。

「年の初めのためしとて…」

2012年の学級だよりは,そんなタイトルで始まりました。
一年の幕開けというのは不思議と力が湧いてくるものです。「よし,今年はこれをやろう」と一念発起した経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
そんな心機一転ムードに乗じて,小学校でも「今年の目標」なんかを書かせます。今回はそんな「今年の目標を書かせる」ということについて書いてみました。


★以下 平成24年1月13日学級だより「すきやき」より★


タイトルを見て,あのメロディーが頭に流れる人も多いのではないでしょうか。
元旦の「かくし芸大会」という番組で流れていた曲です。2010年の元旦を最後に放送を終了したそうですね。

実は私,この「ためし」を「試し」だと思っていました。「年の初めに(自分の芸を)試して…」という意味だと思っていたのですが,ちょっと調べてみると全然違うことがわかりました。
この「ためし」は「例」だというのです(「宝くじなんて当たったためしがない」と同じ「ためし」です)。「例」は先例や前例のことを指すので,「年の初めのためしとて」は「年の初めの先例として」という意味になります。今風に言うと「年始ってのは昔から同じような感じでさ…」というところでしょうか。

学校で「年の初めのためし」といえば「今年の目標」です。
さらに「学年の初めのためし」として「○年生の目標」,「後期の初めのためし」として「後期の目標」という具合に,そのつど新しい目標をたてるわけです。

これってちょっとヘンだと思いませんか? 

「○年生の目標」が,ある学年全体を通しての目標だとすれば,「後期の目標」はその学年の後半の目標になります。そのとき「○年生の目標」はどうなってしまうのでしょう。さらに1月になれば「今年の目標」です。「○年生の目標」や「後期の目標」の振り返りもまだなのに…。そうして「今年の目標」を立てて3か月もすれば進級して,そこでも「○年生の目標」をたてるのです。これでは目標のうえに目標が重なる一方で,振り返ろうにも「どの目標を振り返ったらいいの?」と混乱してしまいそうです。

でも,せっかく新年を迎えたのだから,やっぱり新しい気持ちで仕切りなおしたい。というわけで今回は「今年の目標」ではなく「新年の誓い」ということにして,4年生になった自分の姿を想像して「3月までにできるようになりたいこと」や「3月までつづけたいこと」を書くように言いました。3ヶ月という期間限定の目標にすることで,ちょっと難しそう…という目標にチャレンジしてみようという作戦です。
     宿題をわすれないようにする。
     全部の時間にかならず1回は手をあげる。
     漢字テストでいつも100点をとる。
千里の道も一歩から。
3ヶ月の道のりも一週間から。

予定表の≪今週の目標≫欄を空白にしておきました。子どもたちがそれぞれの3ヶ月後を目指して,それぞれの≪今週の目標≫を書き入れるためです。毎週金曜日,予定表を持ち帰ったら右上の≪今週の目標≫にもご注目ください。


★補足★


読み返してみると,「そんなに堅苦しく考えなくても…」と思わなくもないですが…。

「一年の始まりに『今年は○○な年にしたいなあ』と考える」ことが無駄だとは思いません。かと言って,営業ノルマさながらに「△△までに××を達成する」という目標をたてろと言うわけでもありません。

ただ,限られた時間を無駄に費やしたくないだけです。

新学習指導要領の実施以前から,授業時間の確保は喫緊の課題です。限られた授業時間を割いて「今年の目標」なるものを書かせるのであれば,それなりに意味のあるものにしたいと思うのです。

意図もなく,それこそ「年の初めのためしとて」今年の目標を書かせ続ければ,子どもたちは「なんだかわからないけど,こう書いておけば大人は満足なんでしょ」という”上手な”目標の書き方を覚えるだけじゃないの? 
そんなことのために,貴重な時間を費やすの?

新年早々,そんなヒネくれたことを考えていましたとさ。





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2012年1月16日月曜日

2011年の終わりに

とっくに2012年は始まっていますが,今さら年末の話題です。
「一年を振り返る」というと,一般的にはその一年間の大きなイベントや事件を振り返って「ああ,こんなこともあったなあ」という感じですよね。もちろんそういう振り返りも大切だと思います。
でも,せっかく学校で「一年を振り返ってごらん」と言うからには,こんなことも考えさせたいなあと思って書いたおたよりです。


★以下 平成23年12月22日学級だより「すきやき」より★


4月にスタートして,9か月が過ぎようとしています。2011年の終わりも近づき,子どもたちも私もひとつの節目を迎えます。振り返ると,あっという間の9か月間でした。

子どもたちに,2011年の思い出を尋ねると,運動会や学習発表会,縦割り遠足というような行事を挙げます。多くの時間を費やして準備を重ねたり,緊張で眠れない前夜を過ごしたり,あるいはこれまでに無かったような経験をしたりと,行事を通して子どもたちが得るものがそれだけ大きく,鮮明に残るからでしょう。そういう大きな行事で,子どもたちがいつも以上に多くを学び,ぐっと成長することは事実です。

それだけに,私たち教師はつい学校行事に頼ってしまうところがあります。「みんなで協力して○○を成功させよう!」「もう少しがんばれば○○だ!」というように,ひとつずつの行事を「協力する目的」や「努力する目標」にしてしまうのです。では行事がないときは,協力しなくていいのでしょうか。がんばらなくていいのでしょうか。
もちろん違います。本来なら,1時間1時間の勉強や休み時間での友だちとの関わり,給食など,学校で過ごす全ての時間で,子どもたちは協力することや努力することを学んでいきます。そうして高めた力を発揮する場として,行事があるのだと思います。行事のあるなしに関わらず,いつでも仲間と協力し,いつでも努力できる人であってほしいと思うのです。

1年間の行事の多くが終わったこの時期,私がいつも気にしていること。それは,子どもたちが,大きな行事だけでなく,普段の学校生活の積み重ねの中で成長してきたことを自覚できているか,ということです。「学習発表会で○○をがんばった」「運動会で○○ができるようになった」という短期間での成長だけでなく,「3年生になっていつのまにか○○がうまくなった」とか「2年生のときにできなかった○○が今年はできるようになった」というような,長い時間をかけた自分の成長を見つけられるようになってほしい。そうやって自分自身の成長を(どんなに小さなことでも)発見できる力,それがこれからの人生を豊かに生きぬく力のひとつだと思うのです。そんなことを考えながら,これまで指導してきました。

お正月に家族でゆったりと過ごしながら,前の1年間で自分が成長したことや,新しく学んだことを「家族の10大ニュース」として競い合うのも面白そうです。

どうぞよいお年をお迎えください。


★補足★


ちなみにこの「家族の10大ニュース」,私の実家では今でも毎年行っています。5人家族がそれぞれの思う「我が家の10大ニュース」をノミネートし,互いに投票し合いながらその年のベストテンを決めるのです。
具体的には「A太郎,○○のコンクールで銅賞!」とか「B次郎,国語のテストで初めての100点!」というように,それらしい見出しを書いて話し合うのですが(紅白歌合戦を見ながら),これはこれでなかなか面白いものです。
今年の年末には(12か月も先の話ですが),ぜひ試してみてください。







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2011年12月20日火曜日

「教室はまちがうところだ」なんだけど

何かの学習問題に取り組かかるとき,人がもっとも成長する瞬間はいつだと思いますか。

1,問題に出会うとき
2,答えに近づこうとするとき
3,答え合わせをするとき

1,2を大切にしたうえで,という前置きはつきますが,私は「3,答え合わせをするとき」がとても大切なのではないかと考えています。
この週はそんな「答え合わせをするとき(した後)」の中でも「まちがえたとき」に,そこから何をどう学ぶかということについて指導していることを書きました。


★以下 平成23年12月9日学級だより「すきやき」より★


先日の学習発表会で,2年生の発表した群読の中に「教室はまちがうところだ」がありました。原文は2004年に発売された絵本です。教師をしていると,どこかで一度は出会う本ではないかと思います。私自身,何度も読んで,子どもたちを励まし自分を励ましてきました。

この「教室はまちがうところだ」ですが,私が子どもたちに話すときは,もう少し付け足しています。

誰にだってまちがえることはある。まちがえてばかりでもいいじゃないか。
だけど,次にまちがえないように考えたり練習したりすることが大切だ。

簡単に言うと「まちがいをそのままにしたらいかん」ということです。例えば宿題の漢字練習。

4月当初,多くの子どもたちにとって宿題の直しは「ついで」でした。
今日の宿題を終えてから,前日の宿題に貼られた付箋を見て「どれ,直しでもするか」と始める子どもはまだいい方で,私がいくら付箋を貼ってもどんなにお手本の字を書いてもほったらかし,という子どもがたくさんいました。あの手この手で子どもたちに言い聞かせ,直しをしている人が次はまちがえずに書けるようになった様子を見せ,それらを何度も繰り返しながら,ようやくほとんどの子どもが当たり前のように直しをするようになりました。

また,直しの仕方についても指導してきました。私は「ここ,まちがってるよ」という印に,×ではなく線を引きます。ところが「ここを直さなくちゃいかんのだな」と理解した子どもは,おもむろにゴシゴシと消し始めるのです。どこがまちがっているのかお手本と見比べたり,まちがいを探したりすることなく,とりあえず消すのです。これでは次に同じ字を書くときに「○○に気をつけて書こう」というような成長はありえません。同じように何度も何度も言い聞かせ,実際に直しをする様子を見せ,どこがまちがっているかを尋ねているうちに,ようやく消す前に考えられる子どもたちが増えてきました。

毎日欠かさず出している宿題ですが,「前日のまちがいを直す」→「まちがいに注意して今日の宿題をする」という学びのステップを身に付けるのにここまでかかりました。時間はかかりましたが,まちがいなく子どもたちは意味のある宿題ができるようになっています。

次なる課題はテストの直しです。
学校で実施したテストは,返した後すぐに直しをして提出するように指導しています。全員が直しをする時間が学校で確保できる場合はいいのですが,そうでないときもあります。子たちが持ち帰ったテストに直しの跡がないときは,

次にまちがえないようにすることが大切だ 
by田中先生

と声をかけてあげてください。お願いします。


★補足★


かつて,高校時代の数学の先生は,こんなことを言っていました。

「問題集を買うときは解答を見ろ」

答えだけを羅列してあるような問題集は買うな。解説が詳しく載っているものを選べ。例えばこういうものだ。
そう言いながら彼が取り出した某問題集は,解答・解説だけで本全体の半分の厚さを占めていました。問題のひとつひとつに対して驚くほど丁寧に解説が加えてあり,つまづく者を見事に正解へと導くものでした。その本を手にして以来,私は問題につまづいたときに「こんなん,どうしたらええねん」と思いながら解答・解説を開くのが楽しみになっていました。

子どもたち失敗やつまづきを楽しめとは言いません。「失敗は成功のもと」と言うように,「間違えたときこそ賢くなるチャンスだ」ということを伝えたいのです。失敗や間違いを「消しゴムで消して,なかったことにしてしまう」のではなく,「どこが違うんだろうか」と向き合える人になってほしいと思うのです。

その大前提として,「まちがいを大切にできる学級」が重要なんだと思います。そのあたりの取り組みについてはまたの機会に(最近,このパターンが多いな…)

教室はまちがうところだ」,お読みでない方はぜひ。




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2011年12月12日月曜日

褒める,認める,価値づける

あなたは,褒められて伸びるタイプですか? それとも叱られて伸びるタイプ?
私は,同じだけ伸びるならできれば褒められたいと思っているタイプです(笑)。

ところで「じゃあどう褒められたいの?」と聞かれると,これはなかなか難しい。同じことばかり褒められていると「それしかないのか私…」と思ってしまいそうだし,あからさまに「スゴーイ!」なんて褒められると「どうせお世辞やろ」と斜に構えてしまいそうです。

この週は「褒める」について考えていることを書いてみました。


★以下 平成23年12月2日学級だより「すきやき」より★


子どもの力を褒めて伸ばそう――

子育てに関わっていると,何度となく耳にするフレーズです。
確かに,誰だって褒められて嫌な人はいません。ところが実際には「褒める」って難しいですよね。

「良いところを褒めたくても,悪いところばかりが目につく」

「褒めようにも,いつも同じことばかりで,他に褒めるところがない」

そんな声があちこちから聞こえてくるようです。私も子どもたちと向き合いながら,絶えず悩んでいます。そこで,「最近,怒ってばっかりだなあ」と思うときには,こんなことを心がけています。


結果ではなく,過程を褒める。
「上手に書けた(描けた)ね」とか「友だちと仲直りできたね」というように,「書けた」「仲直りできた」という結果ではなく,「書こうとしている」「仲直りしようとしている」という姿勢(過程)を褒めるということです。
「上手に書く」「仲直りする」という姿勢が見える場合はもちろんですが,「集中している」とか「計画的(積極的)に取り組んでいる」ときも「いい字が書けそうだね」「うまくいきそうだね」と褒めることができます。


当たり前のことを褒める。
「自分のはいたスリッパを並べたんやね」とか「廊下の右側を落ち着いて歩いているね」というように,「できて当たり前のこと」をあえて褒めるということです。「赤信号を無視しないで止まれたね」というのと同じです。子たちから「いや,そんなん当たり前やん」と返ってきそうですが,そうなればしめたもの。「決まりだから守る,ではなく自分で『当たり前やん』と思っているのが立派やなあ」と,さらに褒められそうです。


上に書いたことは2つとも,「褒める」というよりも「認める」という感覚に近いかもしれません。教師同士では「価値づける」と言ったりもします。「本人は何とも思わずに(当たり前に)していること」を「実は大したことなんやで」とか「結構すごいことなんやで」というように認め,価値をもたせるということです。
そのために私がよく使う言葉が,「それ,いいね」です。

休み時間にリコーダーの練習をしている姿に「それ,いいね」
今から練習が始まるぞ,と集中している姿に「それ,いいね」
自分の伝えたい言葉を,何度も繰り返す姿に「それ,いいね」
眉毛の上げ下げや口の開き方を確認する姿に「それ,いいね」
舞台裏での「やるぞ」と引き締まった表情に「それ,いいね」 

なんだかいい発表になりそうだぞ。
学習発表会本番前夜,こんなことを考えていました。


★補足★


私の勤務する小学校では,毎週金曜日に翌週の予定表(時間割)と学級だよりを両面印刷で配布します。したがって学級だよりを書くのは遅くても木曜日です。この週は,金曜日が学習発表会という日程でした。いよいよ明日は学習発表会,という日の晩に書いたおたよりを,学習発表会終了後に保護者が読むわけです。

学習発表会終了後に配るおたよりなんだから…と,つい書いてしまいそうになるのが「学習発表会,大成功!」という類の文章です。私は以前書こうとしたことがありますが,書き進めていくうちに,本番での子どものがんばりや,そのときの表情,終わった後の子どもの言葉を書こうというときになって初めて「これは無理だ」と思いました。
以後,「木曜日の晩に書くおたよりには,木曜の晩に書けることを書こう」と割り切れるようになりました。こうやって活字にするとびっくりするぐらい当たり前なんですけどね。


それはともかく,今回書いたものを改めて読み返してみると,「褒める」という行為のおこがましさや危うさのようなものを忘れてはいかんな,と感じます。「褒めてあげる」とか「認めてあげる」というような態度は,子どもはすぐに見抜くでしょう。

どう褒められるかよりも,何を褒められるか。

誰に褒められるか(何を大切にしている人に褒められるか)。

そういうことをもうちょっと考えてみようと思います。続きは別の機会に…。





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2011年9月26日月曜日

「ちゃんと」話してますか?

「ちゃんとしなさい」「ちゃんと書きなさい」「ちゃんと寝なさい」…日頃ついつい口にしてしまう「ちゃんと」について,ちゃんと考えてみました。


★以下 平成23年7月8日学級だより「すきやき」より★


昔,1年生の担任をしていたころ,ひとりの子どもが聞きにきました。

「先生,『ちゃんと』ってなあに?」

一瞬,何を聞かれているのか戸惑ったのですが,詳しく聞いてみると「ちゃんと書きなさい」の「ちゃんと」のことだそうで,「ああ,それはね…」と説明をしました。

普段何気なく使っている言葉でも,意味が伝わっているかどうか確かめなくてはならないな,と改めて考えさせられたのを今でも覚えています。

大人同士であれば「ちゃんと書きなさい」が本当は「お手本と同じ形になるように書きなさい」なのか「鉛筆をゆっくり動かして書きなさい」なのか,あるいは「テレビを見ながらではなく,集中して書きなさい」なのか,状況によって聞き手が判断することができます。これは「察する(≒空気を読む)」ことを得意とする日本語ならではの特徴ですが,実はかなり高度な判断力を必要とするのではないかと思います。

考えてみると,「ちゃんと書きなさい」のほかにも,「ちゃんと食べなさい」「ちゃんと読みなさい」「ちゃんと話しなさい」など,私たちは毎日たくさんの「ちゃんと」を使っています。また,よく似た言葉に「しっかり」というのもあります。「しっかり噛みなさい」「しっかり聞きなさい」「しっかり見なさい」「しっかり声を出しなさい」など,こちらも身に覚えのある言葉ばかりです。さらには,「ちゃんとしなさい」「しっかりしなさい」なんて言い方もあり,こうなるともう言葉だけでは何がなんだかわかりません。

気をつけなくてはいけないのは,このような言葉は話し手にとってとても使いやすい言葉だということです。たとえば忘れ物をした子どもはよく「次は忘れないようにちゃんと予定表を見ます」と言います。なんだか立派に聞こえますが,「昨日は予定表を見てなかったの?」と尋ねると「見ました。でも今日はもっとちゃんと見ます」と言います。そこで「もっとちゃんと見る,ってどうやるの?」とさらに尋ねると,ほとんどの人は困ってしまいます。

たとえば「持ち物の欄を声に出して読む」とか「持ち物を赤鉛筆で囲んでおく」とか,具体的にはいくつかの「ちゃんと見る」方法があります。しかし,忘れ物をした子どもが「次は忘れないようにちゃんと予定表を見ます」と言ったときに,いったいどんな方法を頭に思い浮かべているのでしょう。「ちゃんと」には,そういう具体的な行動を考えなくても,なんだかうまく言えたような気にさせてしまう力があります。本人はそう思っていなくても,「ちゃんと」や「しっかり」で上手にごまかしてしまうことができるのです。

だからこそ,私たち大人が子どもに話すときは,「ちゃんと書きなさい」の簡単さに甘えてはいけないと思います。「ちゃんと書く」とは具体的にはどういうことなのか,「ちゃんと食べなさい」や「ちゃんと読みなさい」「ちゃんと話しなさい」とは具体的にどうすればいいのか,そういうことを私たち大人が“ちゃんと”説明できないといかんなあ,と毎日考えているところです。


★補足★


普段,「ちゃんと」という言葉の簡単さに逃げてしまっているのは,もちろん私自身です。自戒の意味を込めて,こんな文を学級だよりに載せたのですが,改めて読んでみると,「私も気をつけるから,家の人も言葉に気をつけてね」と言っているみたいにも読めますね。
これを読んだ家の人が,「なるほどなあ」と感じてくれるのはもちろん嬉しいのですが,そうじゃなかったとしたらどんな風に感じるのか,ぜひ聞いてみたいです。ご感想をお寄せください。




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