2012年3月12日月曜日

先生なんていなくても

何とも挑発的なタイトルですね。そのままおたよりのタイトルでもあります。
今回は,これまでの自分の指導を振り返りながら,こんなおたよりを書きました。


★以下 平成24年2月10日学級だより「すきやき」より★


子どもたちに聞いていただければわかりますが,私はときどき自習にします。
授業研究のために他のクラスや他の学校を見に行く場合がほとんどですが,そのたびに子どもたちに話していることがあります。それは「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

4月当初に「前にならえ!…でいいの?」というおたよりを書きました。
誰かに「前にならえ!」と号令をかけてもらうからまっすぐ並ぶのではなく,「今はまっすぐ並んだ方が格好いいぞ」という場面を「自分で判断して」並べる人になってほしい,という話です。
「先生がいないときこそ,本当の力が試されるんやで」というのはその上級編にあたります。

「前にならえ」のような号令でなくとも,教室にいれば先生が指示することはたくさんあります。
「はい,授業始めるよ」といった時間に関わることや「○○さんが話しているよ(注目してね)」といったコミュニケーションに関わることまで,子どもたちは「先生の言葉」を浴びながら生活し,学んでいるのです。そんな環境においては,自分で「授業が始まる時間だから用意しておこう」とか「○○さんの方を見て話を聞こう」というように考えていなくても,「先生の言葉」によって「あ,そうか」と気がつくことができます。

ところが,普段からその状態(先生の言葉を聞いて行動すること)に慣れている人は,いざ先生がいなくなってみると,授業が始まる時間や,○○さんが話していることに気がつきません。指摘されないとわからないのです。また,先生が教室にいることで「あ,先生が怖い顔してるな」とか「そろそろやめておかないと怒られそうだ」というように,先生の顔色をうかがうこともできます。
いずれにしても「先生がそう言ったから」とか「先生に怒られるから」というような理由で,自分の行動を考えるわけです。

「先生に怒られるから」がんばる子どもと「その方がいいと自分で思うから」がんばる子ども。
困ったことに見た目ではほとんど区別がつきません。どちらもがんばっています。ところがいざ先生がいなくなってみると,その差ははっきりと表れます。「先生に怒られるから」がんばっていた子は,怒る人がいなくなればがんばる理由もなくなります。逆に「その方がいいと自分で思うから」がんばっていた子は,怒る人がいようがいまいが変わりません。これが「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

実はこの言葉,年度末になるといつも私の耳に重く響くのですが,その話は次の機会にお預けですね。ではまた来週。


★補足★


「ではまた来週」で終わるおたよりなんて,我ながら前代未聞です。短くまとめられるのが一番なのですが,私の稚拙な文章力では短くなっただけ内容が削がれてしまう気がして,相変わらずダラダラと伸びてしまいます。



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