2012年5月5日土曜日

学級だよりのタイトルを考える

4月のことなので,もうひと月も前の話になってしまうのですが。

学級だよりのタイトルを考えるのって,けっこう好きです。一緒に学年を組むことになった先生と

「今年はこれでいこうと思います」

「『○○する』という意味の熟語ってないですかね?」

なんて言い合いながらこれから出会う子どもたちのことを考える時間は,短い春休みの楽しみのひとつです。

それだけに,悩む人も多いのでしょうね。
試しに「学級だより タイトル」でgoogle検索してみると,こんなサイトが出てきましたよ。ちょっと見ただけでも,「ああ,それっぽい…」と思うタイトルがゴロゴロしています(笑)。

多くの場合,学級だよりのタイトルは,クラスや子どもたちへの願いが込められているようです。私自身,「こんな子どもたちになってほしい」「こんなクラスを目指したい」との思いからタイトルを考えていました。

「ありました」と過去形にしたのは,私はここ何年か,学級だよりのタイトルを学級目標と同じにしているからです。学級目標はもともと子どもが自分たちで決めたものです(もちろん教師の願いや意図も多分に含まれていますが…)。それを学級だよりのタイトルに転用することで,学級目標がただのお題目で終わらずに,子どもたちの中に浸透した(ような気がした)んですね。昨年度の「すきやき」なんかは,その典型的な例です。



子どもたちは

「ぼく,最近発表できてるで。すきやきの『す』や」

「話を聞こうや,すきやきの『き』やん」

などと言いながら,ことあるごとに「すきやき」を思い出していました。
振り返ってみると,毎週金曜日に学級だよりを発行するとき

「先生,『すきやき』まだ配らないんですか?」

「はーい,今週の『すきやき』配りまーす」

なんて言っていたのがよかったのかも知れません。
逆に考えると,もしこれが教師の決めた学級だよりのタイトルだったら,これほど浸透しただろうかとも思うわけです。




たとえば「青空」という学級だよりがあったとして,そこにはたとえば「あの青い空のように,澄み切った心の持ち主に育ってほしい」という願いがあるのかもしれません。しかしそれは,子どもたちから出てきたものではなく,あくまで教師の願いです。
「こうなってほしい」という教師の願い,それは「もう5年生なんだから…」というあの”魔法の言葉”と大きく違わないのではないかと思うのです。
ようやく前回の記事につながりました。

教師の願いや思いを否定するわけではありません。教師として,大人として,子どもたちに「こうなってほしい」と願うのは当然です。しかしそれが,「5年生だから…」とか「もう10歳なんだから…」という「あるべき姿」に子どもたちを当てはめていくようなものであれば,なんだかちょっと違うなーと思うのです。
「澄み切った心の持ち主に…」と願うのは,あるべき姿に子どもたちを当てはめているのとは少し違うのかも知れません。しかし,本来であれば子どもたちと実際に会い,話をして,「澄み切った心の持ち主じゃないなあ」という発見があって初めて,「澄み切った心の持ち主に…」という教師の願いが生まれるのではないでしょうか。そういうことを抜きにして,子どもたちに実際に会う前に言っているのだとすれば,やはりちょっと傲慢な気がします。


…とまあ,こんなわけで4月当初の学級だよりが(仮)なんですね。


★補足★


ここまで書いてふと思いました。
本当に力のある先生なら,学級だよりのタイトルに転用なんかしなくても,学級目標を子どもたちに浸透させられるんだろうな,と。
そんな先生にとっては,学級だよりのタイトルなんてそんなに重要なことじゃないんだろうな,と。


…先は長いですね(笑)。



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