2012年4月24日火曜日

「もう5年生なんだから…」

新年度がスタートしてはや2週間が経ちました。昨年度は3年生でしたが,今年度は5年生の担任です。実は初めての高学年でして,不安もありますがワクワクしています。

今回は,4月6日始業式の日に子どもたちに配った学級だより第1号を掲載します。この日のおたよりには学級名簿を一緒に載せましたので,少ないスペースで書く必要がありました。放っておくとどんどん文章が長くなる私にとって,最初の試練です。


★以下 平成24年4月6日学級だより「5年2組学級だより(仮)」より★



進級おめでとうございます。 

5年2組の担任となりました,田中先生と申します。

「そんなことより(仮)とはなんだ(仮)とは!」とお叱りを受けそうですね。2組の子どもたちに出会い,ひとりひとりの顔をじっくりと見て,実際に話をしてみてから決めようと考えています。というわけで,少しの間だけ(仮)の題名をお許しください。

5年生というと「高学年の仲間入り」とか「6年生のリハーサル」というようなイメージがあるからでしょうか。子どもたちにも,つい「もう5年生なんだから…」と言ってしまいがちです。しかし本当は「5年生だから○○」という決まった姿が先にあるのではなく,子どもたちひとりひとりが「なりたい自分」を思い描き,努力を続けたその先にそれぞれの5年生の姿があるのだと思います。私たち大人のできることは,そんな「なりたい自分」を目指す子どもたちが安心して前に進めるように,陰日向に支えることではないでしょうか。
保護者の皆様にもたくさんのご協力をお願いすることがあるかと思います。一年間,どうぞよろしくお願いします。


★補足★


4月,学級開きの様々な場面で,教師はつい「5年生になったんだから ○○ 」とか「5年生なんだし □□」という”魔法の言葉”を口にしながら子どもたちとの関係を築いていきがちです。「さすが5年生」なんていうのもその1つかも知れません。子どもたちは健気にも「そういうものなのか」と思い,4月パワーで必死にその○○や□□を目指そうとします。
ところが実際には,そう簡単に(魔法にかかったように)何かができるようになる子どもばかりではありません。カレンダーが3月から4月になっただけで皆が急に成長するなんて,そんな妙な話はないでしょう。
もちろん4月という心機一転のチャンスに「今年こそは!」と意気込む子どもは多いでしょうし,そういう気分の高まりが子どもの力を伸ばすという側面もあると思います。しかし,だからと言って,教師が「もう5年生なんだから…」と言いながら子どもを伸ばそうとするのは,なんだかズルいような気がするんですね。うまく言えないのですが…。

そんな思いもあって,「学級だより(仮)」なのだと自己分析しています。このあたりは次の機会に。



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2012年4月16日月曜日

保育園の先生の言葉

春休みに娘を連れて動物園に行ったときのことです。
生後4か月半の娘が動物園をどの程度楽しんでくれたのかわかりませんが,ふれあいコーナーのヤギに手を伸ばしている写真が撮れただけで親は満足してしまうのですね。親バカここに極まれり,です。


さてこの動物園,新学期になれば平日は遠足で来た子どもたちでいっぱいになるのでしょうが,この日は春休み中ということで,親子連れがほとんどでした。
普段は意識しませんが,こういうとき「先生」の声というのは目立つものですね。象のコーナーでこんな声が聞こえてきました。

「はーい,○○組さんはこっちですよ」

「象さんがいますね。写真を撮りましょう」

春休み中ですから,保育園の先生でしょうか。娘と象の写真を撮りながら,しばし耳を傾けていました。どうやら写真を撮るために並ぶようです。

「男の子は後ろ,女の子は前にしゃがみましょう」

そんな言葉が気になって見てみると,子どもたちは整然と男女別に並んでいます。みんな同じ制服を着ているのですが,よく見ると男の子は深緑のスカーフ,女の子はピンクのスカーフを身に付けているようです。

いい表情で写真を撮るために,先生は子どもたちに声をかけます。

「女の子,かわいい笑顔でね。そうそう。男の子,かっこいいなあ」

しばらく象を見たあとで,先生がこんな風に子どもたちを呼びました。

「男の子,こっちに並びましょう。女の子はこっちね」

トイレにでも連れて行くのかと思いきや,そのまま次の動物のところへ移動するようです。子どもたちは整然と男女別に並び,先生の後をついていきました。



「男の子」「女の子」ってこうやって「作られて」いくんだね,と皮肉交じりにつぶやくと,保育園で仕事をした経験のある妻はこう言いました。

「管理しやすいんやって」

なるほどな,と思いました。
管理というと聞こえは悪いかも知れませんが,安全管理や健康管理など,子どもを預かる者としては欠かせない仕事。大勢の子どもたちをきちんと管理するには,少人数のグループに分けるのが効率的です。とはいえ未就学の子どもたちに班やグループを理解させるのは大変なのでしょう。そこで「男女別グループ」で管理するわけです。これなら,子どもたちは自分がどのグループに属するのか,考えなくてもすぐにわかります。服装に目印となる違いをつけておけば,管理する側にとってもわかりやすくなります。

それはわかります。それはわかるんですが。

管理しやすくするために「肌の色」で子どもを分けていたら。
管理しやすくするために「居住地」で子どもを分けていたら。

きっと大問題になりますよ。

男女が全く同じとは言いませんが,管理のために必要以上に性差を際立たせることになっているとすれば,それはちょっと違うような気がします。そこから子どもたちが「学んでしまう」ことについての考慮が必要なのではないかと思うのです。

娘の写真を撮りながら,そんなことを考えていました。


現場の先生や保育士の方には,きっといろいろな思いがあることと思います。
ご意見をお持ちの方,ぜひコメントをお願いします。


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2012年4月2日月曜日

年度末のご挨拶 ~子ども編~

4月になり,新年度の準備も始まっていますが,前回の記事の最後に書いた「ちょっと別のこと」をまだ載せられていなかったので,なんとなく年度末の気分でした。平成23年度最後のおたよりのタイトルは「3年○組を卒業するみんなへ」です。


★以下 平成24年3月23日学級だより「すきやき」より★


3年○組がスタートしてもうすぐ1年がたちます。着任式(ちゃくにんしき)の日,運動場で田中先生を見て 「どんな先生なんだろう」「こわい先生かな」とドキドキしていたみなさんの顔を,今でも思い出します。みんなにとって田中先生はどんな先生でしたか。みんなにとって3年○組はどんなクラスでしたか。

4年生になれた人も,そうでない人(?)も,この仲間(なかま)や田中先生と一緒(いっしょ)にすごすのは今日でおしまいですね。最後(さいご)の日ですので,田中先生からみんなにお別(わか)れの言葉を書こうと思います。お別れの言葉といっても,田中先生がずっと言い続(つづ)けてきたことなので,「またか」と思う人がいるかもしれません。でも,4年生になっても5年生になっても,6年生になっても絶対(ぜったい)にわすれないでほしいことです。だから,しつこいけれど書いちゃいます。


自分で考える

友だちの言うことを聞くのは大切です。でも,友だちがいつでも正しいとはかぎりません。本当に正しいかどうか,それを考えるのは自分なのです。
考えるヒントは「どんな自分になりたいか」です。
「○○さんもやってた」とか「□□さんがやれって言った」という人は自分で考えていません。○○さんが何をしようが,□□さんが何を言おうが「どんな自分になりたいか」を考えてください。 


先生がいないときに,本当の自分が出てくる

先生に言われてから行動する人は,先生がいなくなると何もできません。
先生がこわいからがんばっている人は,先生がいなくなるとがんばれません。
本当の自分は,先生がいないときにわかります。 


伝わるまで伝える あきらめずに伝える

「ごめんなさい」「ありがとう」「○○されていやだった」「それ,おかしいよ」…。どんな言葉も相手に伝わらなければ意味がありません。一度でうまく伝わらなければ,言い方をかえて何度でも伝えること。「どうせ言ってもむだだから…」とあきらめないこと。


うそをつかない ごまかさない

失敗してもいいのです。まちがってもいいのです。失敗もまちがいも,成長するためのチャンスだからです。「どうして失敗したのだろう」と考えるときに人は成長します。失敗やまちがいをごまかす人は成長しません。


「わからない」は「わかった」への近道

「わかった」からいちばん遠いのは「わかったつもり」です。はずかしがらずに「わからない」「教えて」と口に出して言える人は,かならずわかるようになりますよ。


みんながなかよしじゃなくてもいい みんなが気持ちよくなれるように

人はみんなちがうのだから,考えや意見が合わないのがふつうです。苦手な人がいたっていいのです。ただし,好きな人とも,苦手な人とも,おたがいに気持ちよくすごせるようにしてください。自分だけでなく,相手も気持ちよくすごせるかどうか,です。


やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。ちがう学年になっても,ろうかですれちがったときには「がんばって伝えてるで」とか「『わからない』ってちゃんと言えてるで」と教えてくださいね。


3年4組学級通信「すきやき」はこれでおしまいです。
みんながいたから先生もがんばれました。先生ががんばればがんばるほど,みんなは大きく成長して見せてくれましたね。こんなに大変で,こんなにおもしろいクラスは初めてです。


みんなに会えてよかった。本当にありがとう!




★補足★


この1年間,彼らにいったいどれだけのことを伝えられたのでしょうか。
学習へ取り組む姿勢や友だちとのことなど,私が伝えたかったことの10分の1ほども子どもたちには伝わっていたのでしょうか。
年度末を迎えるにあたって,そんなことばかり考えていました。

とはいえせっかくのおたよりを「お説教」で終わるのはちょっと…と思うので,何度か推敲してこんな形になったわけですが……やっぱり「お説教」ですかね(笑)。
最後の方に書いた
やっぱり,「またか」と言いたくなるようなことばかりでした。
というのはそんな自分への照れなんだと思います。

子どもたちに向けてメッセージを書いたのは4月当初の「すきやき」以来です。そのこともあって,最後の「すきやき」を配ると子どもたちは食い入るように読んでくれました。慌ただしい年度末のことなので,子どもたちに感想を聞くことができなかったのが残念でした。

今になって少し冷静に振り返ってみると,ひとりの教師が子どもたちにあれもこれも教えられる,と思うことのおこがましさのようなものも感じます。
先生は全部伝えたからあとは君たち次第だよという,ある種の無責任さも感じます。

それでも書かずにいられなかったのは,この1年間の自分の指導への不安の裏返しなのでしょうね。あとは子どもを信じて,自分の指導を信じるのみです。



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2012年3月25日日曜日

年度末のご挨拶 ~保護者編~

23日は修了式でした。ここ1か月は成績処理に追われる日々で,学級だよりにかける時間もあまりとれませんでした。それでも何とか保護者の方にお礼ぐらいは…と思っておたよりを書きました。
そんなわけで,前回のおたよりから1か月近く開いてしまっています。


★以下 平成24年3月16日学級だより「すきやき」より★  


いよいよ学年末,来週で最後の週となりました。この「すきやき」の紙面ではじめましての挨拶をしてから,早いものでもう1年が経つのですね。保護者の皆様には1年間,大変お世話になりました。

前期の終わりと同じように,「もっとできることがあったのではないか」と自問しながらこの時期を迎えていますが,今年はこの「すきやき」についても同じことを考えています。
学校での学習の様子や,休み時間の子どもたちの様子など,もっと他に載せることがあったのではないか。ホームページには学習の様子を写真付きで載せているとはいえ,今年の「すきやき」はあまりにも担任のひとりよがりになってしまってはいなかったか。

内容についての直接のご感想をいただいたり,子どもたちから「うちのお母さん,毎週楽しみにしてるよ」というようなこと聞くたびに,それを自分の力に換えて書き続けてきました。何かひとつでも保護者の方の心に引っかかって「ふーん,先生ってこんなこと考えてるのね」とか「ちょっと家でも真似してみようかな」というように,普段の生活にプラスになればこんなに嬉しいことはありません。

学校で,子どもたちは挑戦し,失敗し,また挑戦し,友だちに認められ,あるいは傷つけられ,喜び,悲しみを織り交ぜながら成長していきます。そしてこれこそが集団で学ぶことの意義だと私は考えています。しかしそのためには,子どもたちにとって安心できる心のよりどころが必要です。
それが家族の力ではないでしょうか。
いつでも温かく迎え入れてくれる,子どもたちのどんな姿をも受け止めてくれる懐の深い家庭があってこそ,子どもたちは安心して挑戦できるのだと思います。

この1年間,子どもたちは全力で挑戦し続け,たくさん失敗をし,そのたびに成長してきました。
陰日向になって支えてくださったご家族の方への感謝をもって,早めのご挨拶とさせていただきます。

1年間,ありがとうございました。




★補足★




修了式が23日ですから,このおたよりはそれより一週間前のものになります。一週間後,修了式の日に発行するおたよりにはちょっと別のことを載せたいと思っていましたので,「早めのご挨拶」となったわけです。


「ちょっと別のこと」は次の機会に。






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2012年3月15日木曜日

続・先生なんていなくても

学級だよりで「来週に続く」なんて,そんなんアリか?とも思ったのですが…。お付き合いください。


★以下 平成24年2月17日学級だより「すきやき」より★ 


「4年生になっても田中先生がいいなあ」


この時期になると,こんな嬉しいことを言ってくれる子どもがいます。そんなときは私もつい頬が緩んで「そうやねえ。同じだといいねえ」と答えています。

この1年間(…まだ終わっていませんが),子どもたちは大きく成長しました。授業中に手を挙げて発表できるようになった人,友だちとのトラブルを自分で解決できるようになった人,「わからない」と言えるようになった人,宿題を忘れなくなった人,漢字をとても丁寧に書けるようになった人。
そんな成長を「田中先生のおかげで…」と言ってもらえるのであれば,教師としてこんなに嬉しいことはありません。

そんなことを考えているとき,「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」という先週の言葉が私の耳に重く響きます。それは,子どもたちの成長が本当に子どもたちのものになっているか,ということです。


たとえば「田中先生はシールをくれるから」という理由だけで漢字を丁寧に書き続けてきた人は,シールをもらえなくなったらどういう字を書くでしょうか。「互いが納得するまで話し合わないと田中先生に叱られるから」という理由だけで友だちとのトラブルを解決してきた人は,叱られなくなったら話し合うことをやめてしまうかもしれません。
もちろん,授業中に手を挙げて発表できるようになったきっかけが「田中先生が挙げろというから」でも構いません。宿題を忘れなくなったきっかけが「忘れたら田中先生に怒られるから」でも構いません。しかし,いつまでもそのままではいけないなと思うのです。

「田中先生に怒られるから〇〇する(しない)」の次なるステップは「自分はその方がいいと思うから〇〇する(しない)」です。教育用語では前者を「外発的動機」,後者を「内発的動機」と言います。「外からの力」を動機として行動するのか,「内からの力」を動機として行動するのかの違いです。

難しいのは,どちらの場合も見た目の行動は同じであるということです。
「先生が怖いから」落ち着いて勉強しているのと,「自分がそうしたいから」落ち着いて勉強しているのは,見た目にはほとんど変わりません。その差がはっきりするのは,先生がいなくなったときです(ようやく先週の話につながりました)。
先週書いた自習の日は「先生がいなくなる日」に過ぎません。しかし学年末は「この先ずっと先生がいなくなる」のです。4月になれば,それまでの成長が本当に子どもたちのものになっているかが試され,はっきりと目に見える結果となるのです。

誰の前ででも,どんな仲間の中ででも,自分の力を精一杯伸ばし成長しようとする。そんな人になってほしいと考えて今日まで指導してきました。残り一か月,少しでも多くのことを「内発的動機」でできるようにしていきたいと思います。


先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで――つくづく重い言葉です。





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2012年3月12日月曜日

先生なんていなくても

何とも挑発的なタイトルですね。そのままおたよりのタイトルでもあります。
今回は,これまでの自分の指導を振り返りながら,こんなおたよりを書きました。


★以下 平成24年2月10日学級だより「すきやき」より★


子どもたちに聞いていただければわかりますが,私はときどき自習にします。
授業研究のために他のクラスや他の学校を見に行く場合がほとんどですが,そのたびに子どもたちに話していることがあります。それは「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

4月当初に「前にならえ!…でいいの?」というおたよりを書きました。
誰かに「前にならえ!」と号令をかけてもらうからまっすぐ並ぶのではなく,「今はまっすぐ並んだ方が格好いいぞ」という場面を「自分で判断して」並べる人になってほしい,という話です。
「先生がいないときこそ,本当の力が試されるんやで」というのはその上級編にあたります。

「前にならえ」のような号令でなくとも,教室にいれば先生が指示することはたくさんあります。
「はい,授業始めるよ」といった時間に関わることや「○○さんが話しているよ(注目してね)」といったコミュニケーションに関わることまで,子どもたちは「先生の言葉」を浴びながら生活し,学んでいるのです。そんな環境においては,自分で「授業が始まる時間だから用意しておこう」とか「○○さんの方を見て話を聞こう」というように考えていなくても,「先生の言葉」によって「あ,そうか」と気がつくことができます。

ところが,普段からその状態(先生の言葉を聞いて行動すること)に慣れている人は,いざ先生がいなくなってみると,授業が始まる時間や,○○さんが話していることに気がつきません。指摘されないとわからないのです。また,先生が教室にいることで「あ,先生が怖い顔してるな」とか「そろそろやめておかないと怒られそうだ」というように,先生の顔色をうかがうこともできます。
いずれにしても「先生がそう言ったから」とか「先生に怒られるから」というような理由で,自分の行動を考えるわけです。

「先生に怒られるから」がんばる子どもと「その方がいいと自分で思うから」がんばる子ども。
困ったことに見た目ではほとんど区別がつきません。どちらもがんばっています。ところがいざ先生がいなくなってみると,その差ははっきりと表れます。「先生に怒られるから」がんばっていた子は,怒る人がいなくなればがんばる理由もなくなります。逆に「その方がいいと自分で思うから」がんばっていた子は,怒る人がいようがいまいが変わりません。これが「先生がいないときにこそ,本当の力が試されるんやで」ということです。

実はこの言葉,年度末になるといつも私の耳に重く響くのですが,その話は次の機会にお預けですね。ではまた来週。


★補足★


「ではまた来週」で終わるおたよりなんて,我ながら前代未聞です。短くまとめられるのが一番なのですが,私の稚拙な文章力では短くなっただけ内容が削がれてしまう気がして,相変わらずダラダラと伸びてしまいます。



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2012年3月2日金曜日

「習ってない漢字を使うな」という指導

こんな記事が目に入ったのでつい。

NEWSポストセブン|「習ってない漢字使うな」指導で自分の名前を書けない子供も
<最近、自分の名前であっても学校で習ってない漢字を使ってはならないと先生が指導するという。おかしい。だって名前の漢字はすべて学校で習うとは限らない。ならばいつまでも自分の名前は漢字で書けない。名前は親が指導し、学校では友達の名前を読めるように指導すべきと思う>
立命館小学校副校長で大阪府教育委員も務める陰山英男さんがツイッターに書き込んだつぶやきが、大きな議論に発展している。あまりの反響の大きさに、陰山さん自身驚いているようだ。
「ツイッターでは、大阪府の教育基本条例の問題なども取り上げているのですが、漢字と名前の問題の反響はそれよりはるかに大きいものでした。あまりにも多数の声が次々に届くので、何かの間違いではないかと思ったくらいです」
反響の理由を、陰山さんはこう分析した。
「保護者の声で最も多かったのは、書ける漢字を書かせないという“ブレーキをかけること”への反発でした。この問題に保護者がここまで熱くなっている背景には、学校への不信があります。これまで教師がよかれと思って指導してきたことが、保護者目線で見るとズレていることがあるんです」
「漢字と名前」問題が浮き彫りにした、いまの学校教育の問題とは──
例えば「陰山英男」さんが新入生として小学校に入学したとしよう。最初は漢字を習っていないので、すべて平仮名で「かげやまひでお」。1年生のうちに「山」と「男」を習うので「かげ山ひで男」と書くよう指導される。4年生になると「英」の字を習い「かげ山英男」と書くが、「陰」の字は小学校卒業まで書かないことになる。これが名前の「交ぜ書き」だ。
ツイッターで指摘しているとおり、子供が漢字で自分の名前を書けるにもかかわらず、「平仮名に直せ」と指導されるケースが少なくないことがわかった。つまり、子供は「陰山英男」と書けるにもかかわらず、「かげ山」と書きなさいと教えられていたのだ。東京都在住のAさん(44才・主婦)がいう。
「子供には“小学校に上がる前に漢字で名前が書けるように”と漢字を覚えさせ、子供も名前を漢字で書けるようになったことで自信がついたのか、学校に行くのを楽しみにしていました。ところがある日、『習ってない漢字は平仮名で書かなきゃダメなんだって』とションボリして帰ってきたんです。思わず“ダメってどういうこと? 自分の名前なのになんで漢字で書いちゃいけないの?”と声を荒らげてしまいました」
さらに、学校や教師によって漢字がOKだったりNGだったりすることで、ますます混乱してしまう子供や保護者もいる。
「うちの名字は『清水』で、息子は全部漢字で書けます。でも2年生で習っているのは『水』の字だけなので、それに従うと『し水』と書かなければいけないことになる。担任の先生は息子が名前を漢字で書いても『平仮名に直しなさい』とはいわないそうですが、書写の先生には『平仮名に直しなさい』といわれてかなり戸惑っていました。
最近では先生の顔色を見ながら『清水』『し水』を書き分けているようですが、どうして子供がそんな気を使わなくちゃいけないのか。せめて学校内で統一してほしい」(39才・主婦・東京都)
※女性セブン2012年3月15日号
http://bit.ly/zF6amG

「そういう先生もいる,ぐらいが本当なんだろうけどなあ」
 というのが率直な感想なんですが,実際のところはどうなのかわかりません。
私の周りの先生たちの多くが,たまたま記事には当てはまらないだけなのかもしれません。

だからと言って「これだからマスコミは…」と,こんなところでマスコミの針小棒大を嘆いてみても不毛なだけです。
どこに問題があるのかな,と考えてみました。


子どもたちを担任してすぐの頃,子どもたちがこんなことを聞いてきました。

「名前に,習ってない漢字も書いていいですか」

ちょっと意地悪ですが,逆に聞き返しました。

「どう思う?」

子どもたちは「あかんやろ…」とか「ええんちゃう?」などと言っていたのですが,中にはこんな風に言う子もいました。

「○○先生(去年の担任)は書いたらあかんって言ってはったで」

「いや,△△先生(去年の担任)は書いてもいいって言ってた」

まさに,記事にあるような「混乱」です。
東京都の主婦の言葉にあるように,「せめて学校内で統一してほしい」と言いたくなるのもわかりますよ。

子どもたちはそれまで「〇〇先生の言ったことだから」「△△先生の言ったことだから」と必死に守ってきたのでしょう。先生の言葉が子どもに与える影響の大きさを感じます。
ところが残念なことに,「先生がそう言ったから」という以上の理由はないんですね。あるいは理由なんかなくても「先生が言うことなんだから絶対に守らないと」と,忠実に従ってきたのかもしれません。あるいは心の中では違うことを思っていても「先生の言うことを聞かないと怒られるから」と,しぶしぶ従ってきたのかもしれません。

実際には「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」という指導をする場合にも,その理由があるはずです。
たとえば「習っていない漢字で名前を書くと,他の人が読めなくて困るから」というもの。たしかに,子どもどうしでノートを配ったり互いの作品を鑑賞したりするときには,名前をスラスラと読めた方が便利です。
あるいは「習っていない漢字を,間違えたまま覚えてしまうことがあるから」というもの。人間の思い込みというのはなかなか強いもので,一度覚えた漢字の形や画数などはなかなかすぐに直せるものではありません。就学前に家の人に教わっていても,何度も書いているうちにいつのまにか勘違いして,へんとつくりが逆になっていたり,大きさのバランスがヘンだったり,ということもありますね。

子どもに,これらの理由を完全に理解させるのは難しいと思います。
しかし,教師が「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」と言うときに,その理由を説明するのとしないのとでは全然違います。「先生の言うことだから」と黙って従う子どもと,「ちょっと難しいけど,ちゃんと訳があるのね」と(それなりに)納得して従う子ども。家の人に「どうして名前を漢字で書いたらだめなの?」と尋ねられたときにも,きっと反応が違うはずです。


話が長くなりました。

「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」という指導が悪いわけではありません。
ただ,子どもが「使いたい」と思うものを「使ってはいけない」というのであれば,それなりの「指導上の意図」や「理由」をきちんと伝えるべきです。
そういう手間をかけずに,「先生(大人)の言うことだから」というような「ねじ伏せ型」の指導や,「みんながそうしているから」というような「無思考型」の指導を続けていると,こんな記事になってしまうのだろうな,と思いました。


私は「名前には,習っていない漢字を使ってはいけません」とは言いません。
友だちが困らないようにフリガナを書けばいいし,字を間違えて覚えていたら教えればいい。そう考えるからです。






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