2012年1月8日日曜日

おばあちゃんの贈り物

昨年11月,我が家に娘が生まれました。
私の両親にとっては初孫です。ずっと楽しみにしていたようで,生まれたと聞くやいなや,北海道から関西まで文字通り飛んできました。

年末年始は,そんな両親のもとへ娘を連れて帰省しました。


話は少しさかのぼります。
娘が生まれてからというもの,出産祝いやおさがりの洋服をたくさんいただきました。中には段ボールいっぱいの洋服を送ってくれる知人もいて,夫婦で嬉しい悲鳴をあげていたのです。でも,ベビー服って色のバリエーションが少ないんですね。子どもが女の子ということもあって,ほとんどが淡いピンク系の洋服でした。
はじめのうちは私たち夫婦も「これ,かわいいなあ」「こっちもかわいいなあ」などと言いながら,着替えるたびに楽しんでいたのですが,どれを着ても淡いピンク。ご好意で洋服をくれた方々には非常に申し訳ないのですが,だんだん目が飽きてきてしまいました。

実家に帰省したのはそんな折。違う色のベビー服もほしいね,と話していた矢先,母が娘に何かプレゼントをしたいというので一緒にベビー用品店に行きました。
ピンク以外の洋服も…という会話を聞いていたのか,母は水色や緑色の服を意図的に選んでくれていたようです。私たちが「こんな色,あるんや」と言いながら喜ぶ姿を見ても,母は「やっぱりピンクじゃなきゃ」とは言いませんでした。
そんな母にも,ひとつだけ譲れないことがありました。それはフリフリ(笑)。正しくはフリル?何と呼ぶのかわかりませんが,レース模様のアレです。

私が三人兄弟だったこともあり,母はいつも「かわいいフリフリの服を選びたいな」と思っていたのだとか。今の私なら「本人の好みがはっきりしないうちは,何だっていいじゃない。男の子にもフリフリを着せてみたら?」などと言いそうですが,母は母なりに考えて「やっぱり男の子にフリフリの服はねえ…」と諦めてきたのだそうです。かくして母は「子どもにフリフリの服を買ってあげたい!」という30年越しの夢をこの日叶えたのでした。
しかし,ちょっと意地悪な言い方をすれば,娘は「フリフリは女の子の服」というひとつの「常識」をその身に刻み込んだとも言えます。

もちろん,この日の一件だけで娘の何かが大きく変わるわけではありません。しかし,こうした経験の積み重ねが「ピンクや花柄の好きな女の子」や「ブルーや自動車柄の好きな男の子」をつくっている,とも言えます。そんな風にして育った子どもがある日,フリフリの好きな男の子や機械いじりの好きな女の子に遭遇したとしたら…。「男(女)のくせにヘンなの!」と感じるのは,当然と言えば当然でしょう。そのまま大人になって「男のくせに○○…」とか「女のくせに○○…」と言うかもしれません。

では,母の行為はそんな性差別を助長する,悪しき行為なのでしょうか。
そうではないと思います。
私の娘にフリフリの服を買うのは,「きっと似合うだろう」という「好意」から。
私たち兄弟にフリフリの服を買わなかったのは,「ヘンなの!と言われるかもしれない」という「配慮」から。
そんな好意や配慮から出た母の行為を,「そうやって【男の子】と【女の子】がつくられるんや。性差別につながるからやめてくれ」と非難することは,私にはできません。

以前私が書いた記事は,そんな「好意や配慮から出た言葉」と「差別感情から出た言葉」は,どちらも同じだ!と安直に非難してしまった例です。反省です。


娘にフリフリの服を買ってあげたい,という母の姿を見て改めて思いました。

「男は仕事ができなくっちゃね」
「女は料理がうまくなくっちゃね」
とか
「男らしく堂々としなさい」
「女らしくおしとやかにしなさい」
という言葉も,「好意」や「配慮」から出てくる場合があるんですね。「そうしておいた方が,世の中生きやすいよ」とか「そうしておかないと,周りにヘンに思われてしまうよ」というように。

そう言われた幼い子どもは,言葉通りに「よし○○しよう」と思います。あるいは意識もせずにそうしているかもしれません。ところが,同じような経験を重ねていくことで「男は○○するもの」「女は○○するもの」という「ふつう」をも身に付けていくのです。
この「ふつう」が厄介なんですね。なぜなら,同じ「ふつう」を共有する者にとって「ふつうでない者」は,違和感や嫌悪感の対象となることがあるからです。そして,その果てにあるのがいじめや差別だと私は考えています。
だからこそ,「ふつう」は人それぞれ違う,互いの「ふつう」を認め合うことが大切だと教えることが,教師の仕事だと思うのです。人権教育だと思うのです。



これが「ふつう」なんだよ。「ふつう」にしておくと気持ちよく生きていけるよ。

あなたの「ふつう」とは違う「ふつう」をもっている人もいるんだよ。

自分とは違う「ふつう」を尊重するんだよ。

矛盾するようだけれど,どれも本当のこと。
人権教育の難しさは,こういうところにあるんだなあと思います。



真新しいフリフリの洋服を着て,ういあういあと笑う娘を見ながら私たち夫婦は
「やっぱり女の子にはフリフリなのかねえ。かわいいねえ」
と自分たちの「ふつう」を話していました。

2011年暮れ,おばあちゃんの贈り物は,娘にとっても私にとっても意味深いものになりました。






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2 件のコメント:

  1. からしマヨネーズ2012年1月9日 11:07

    田中先生はじめまして。
    いきなりですが質問です。
    相手のために良かれと思い,善意から,ステレオタイプな生き方を相手に求めたり,相手を抑圧するような人に対して,「それは間違っているよ」ということを理解してもらうのが『人権教育』だと思うのですが,田中先生はどのようにお考えですか?
    その人の「ふつう」は,そのままでいいのでしょうか。

    返信削除
  2. からしマヨネーズさま
    はじめまして,コメントありがとうございます。

    相手のために良かれと思って「ステレオタイプな生き方を相手に求める人」とか「相手を抑圧する人」。こういう人たちに「それは間違っているよ」と言えるのかというと,必ずしもそうではないと私は思います。

    たとえば「大学ぐらいは出ておいた方がいい」と親が子に言う場合。自分の経験に照らして,ステレオタイプな生き方を求める親の姿は,決して間違ってはいないと思うのです。

    逆に,大学卒でない人への差別や偏見をもって「大学ぐらいは出ておいた方がいい」と言う場合。善意だとしても,それは明らかに間違っている思います。

    同じ言葉で「ステレオタイプな生き方を相手に求めて」いても,誰がどういう文脈で誰に向かって言ったのか,によって大きく変わってくるのではないでしょうか。

    >その人の「ふつう」は,そのままでいいのでしょうか。
    重い言葉ですね。
    明らかに他人の尊厳を傷つけたり,人権を侵害するような「ふつう」など許されないことは当然です。
    しかし,本当に大切なのは,自分の「ふつう」が誰かを傷つけてしまっているのではないか,と気にかけることだと思います。
    その人の「ふつう」を変えるのではなく,自分のふりかざす「ふつう」に傷つく人がいるかもしれない,と考えられるようにすること。それが『人権教育』ではないでしょうか。

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