2011年11月14日月曜日

おんなの腐ったやつ

父親の言葉で,今もなお忘れられないものがあります。
それは,いつだったか叱られたときに言われた

「おんなの腐ったやつみたいだな,お前は」

という言葉です。

父の名誉のために断っておきますが,父は男女の違いで人を判断したり,差別的な言葉を平気で口にするような人間ではありません。父は今なお研究を続ける学者ですが,研究を共にする仲間を性別や国籍で選り分けるような人間でもありません。

その父がかつて私に言い放った言葉。

「おんなの腐ったやつみたいだな,お前は」

当時小学生ぐらいの私が,何をしてそんな風に叱られたのか,覚えていません。わずかに記憶しているのは,私が何か「くよくよしていた」り,「陰でこそこそ文句を言っていた」りしたから叱られたのだ,という曖昧な認識です。あるいはもっと重大な「ダメなこと」に対して叱られたのかも知れませんが,タナカ少年の脳には「何がダメなのか」という記憶が刻まれることはありませんでした。
代わりに残ったのは,こんな感覚です。

「おとこが腐るよりも,おんなが腐る方が,ダメなんだな」

同じ「腐る」なら,おとこの方がまだましだ,と。
叱られながら「おんなというものは,おとこが劣化したものなんだろうな」とか,「ああ,俺はおとこに生まれてよかった。おんなに生まれていたならば,腐ったおとこになることすらできなかった」などと考えていたのです。

次に考えたのは

「おんなというものはおとこよりも,くよくよしたり,陰でこそこそしたりするもんなんだな」

ということです。自分の姿は,「おとこが腐った」というよりもむしろ「おんなが腐った」というらしい。その「おんな」たる所以は「くよくよしていた」り「陰でこそこそしていた」りすることらしい,という認識です。

★★★

私の父は男ばかりの三人兄弟でした。私も男ばかりの三人兄弟です。
「おんなの腐ったやつみたいだな,お前は」という言葉は,そんな環境で育った父が学んできた「男らしさ」を,同じような環境で育つ私に向けて伝えるための言葉だったのかもしれません。
あるいはもっと単純に,「くよくよせずに自分の考えをはっきり言ってほしい」とか「陰でこそこそせずに堂々としていてほしい」という気持ちの表れだったのかもしれません。

いずれにしても,その真意がタナカ少年に伝わることはありませんでした。
残ったのは

「おとこが腐るよりも,おんなが腐る方が,だめなんだな」

「おんなというものはおとこよりも,くよくよしたり,陰でこそこそしたりするもんなんだな」

という漠然とした感覚だけでした。

★★★

父も含めて,現在私の周りで「おんなの腐ったやつみたいだな」という人はいません。その言葉のもつ差別的な意味が理解されて使われなくなったのか,それとも地域や時代による変化なのか,私にはわかりません。しかし,「おんなの腐ったやつ」と同じように,「おとこはこういうもんだ」「おんなはこういうもんだ」と,性に付随する価値観を固定してしまうような言い方は,いくらでもあります。

「めそめそ泣くな。男の子でしょう」

「男まさりの元気な子だね」

「草食男子(恋愛に積極的でない男性を指して使われる)」

「女の子が足を開いて座らないの,はしたない」

それぞれに伝えたい内容はあるでしょうが,そこに「男の子」「女の子」という要素を言い足すことで,その言葉の裏にある価値観をも伝えてしまってはいないかと思うのです。つまり,こういうことです。

「めそめそ泣くな。男の子でしょう」
(男は泣くものではない。女は泣くものである。)

「男まさりの元気な子だね」
(女は男よりもおとなしく,元気のないものである。)

「草食男子」
(男は「肉食的」であり,恋愛に積極的なものである)

「女の子が足を開いて座らないの,はしたない」
(女はつつましやかで,おとなしいものだ。)

これらを語る当人に,差別意識はないでしょう。その言葉だけを見れば,差別的とは言えないのかもしれません。しかし,( )内に書いたような「言葉の裏に伝わること」は,やはり不当な決めつけではないかと思うのです。
「めそめそ泣くな。男の子でしょう」と言われた人が,「いや,男だって悲しかったら泣くやろ。何があかんねん」と言えるほど自立した大人であれば問題はないのかもしれません。しかし,これらの言葉が子どもに投げかけられるとき,「言葉の裏に伝わること」の存在は無視できないと思います。
「おんなの腐ったやつみたいだな」と言われたタナカ少年が,「おんなというものはおとこよりも,くよくよしたり,陰でこそこそしたりするもんなんだな」と感じたように,「おんなは○○,おとこは○○」と性別によって「あるべき姿」を固定してしまうこと。それこそが,性差別の入り口ではないかと思うのです。

★★★

繰り返しになりますが,例えば酒の席で

「男らしくビシッと言ってやれ」

「ガサツな女はどうかと思うわ」

なんて会話をしちゃいけない,と言っているわけではありません。その場に居合わせた人にとって,そういう価値観が共有されるのであれば,別に構わないと思います。
しかし,これから価値観を形成していく子どもたちに向かって

「はっきりしゃべりなさい,男の子でしょう」

「もう少し丁寧にしなさい,女の子なんだから」

と言うのはどうかと思うのです。男だろうが女だろうが,「はっきりしゃべる」方がいい,「丁寧にする」方がいいのは同じです。そこにあえて「男の子でしょう」「女の子なんだから」と言い足すことが,本当に必要なのかどうか。言い足すことで「男の子ははっきりしゃべるものだ」「女の子は丁寧にするものだ」という「性に付随する価値観」を植え付けてしまわないか。そんなことを私たち大人は考えなくてはいけないと思います。


こんな話,共感していただけるでしょうか。





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4 件のコメント:

  1. 言葉の裏の思いというものは難しいですね。

    親から子供に言う言葉の中には、自分の理想と願いを
    ストレートに伝えたい時に、投げかけているかもしれません。
    思想はともかく、親子の言葉のキャッチボールと言うのは、
    引き継いだ遺伝子に確認を取っているのかもしれませんね。


    こうやってブログで拝見するまでは、考えもしませんでしたが、
    当時言われた田中少年の心に未だに残っている言葉として、
    お父さんの投げかけられた言葉は否定するものではなく、
    イイですよね。

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  2. 匿名さま
    コメントありがとうございます。

    仰るように,今となっては父の言葉に感謝ですね。こうやって考えるきっかけになっているわけですから。
    父が私に何を伝えたかったにせよ,「自分の理想と願いをストレートに伝え」ることには,明らかに失敗していました(まさか父の理想と願いが「女性は男性に劣ることを知れ」ではないと思いますので)。

    そこから私が学ぶべきことは,子どもに向けて話す言葉に対して大人は細心の注意を払わなくてはならない,ということだと思います。
    まがりなりにも「教師」を名乗る者であればなおさらです。

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  3. 男社会の中で作られてきた言葉ですね。女を見下す考えにつながると思います。個人でできることは微力であっても、田中先生のような視点をもつ人から教育を受けた子ども達は、それらの言葉を見逃さない鋭い人に育っていくと思いますよ。

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  4. ポテトさま
    コメントありがとうございます。
    レスが遅くなって申し訳ありません。

    ポテトさんの仰るように,子どもたちには「【それ】を見逃さない鋭い感覚」を身に付けてほしいと考えています。

    「おんなの腐ったやつ」なんて言ったらダメなんやで,というように「禁止用語」を作るのではなく,「○○の場面で,○○が○○に対してこれを言うのはどうなんだろう」ということを自問できる人でありたいですね。

    返信削除